カレ-ライス(3)
~インスタント・カレ-の歴史~
カレ-ライスは、戦前まで高級な洋食であり庶民が食べられるものではなかった。今のようなインスタントなカレ-ル-がなかったからである。手間暇だけでなくそもそも、カレ-を作る方法がなかったからと言ったほうが正確かもしれない。
しかし、終戦直後の昭和20年に「オリエンタル即席カレ-」(事前に炒めた小麦粉とカレ-粉を混ぜ合わせた粉末状のもので、日本初のインスタント・カレ-・ル-)が発売された。画期的だったのは、小麦粉と脂を炒め、カレ-粉を加えてから肉と野菜のス-プで溶かす手間が省けるため、カレ-が高級洋食から手軽な家庭料理となったことだ。その後、カレ-・ル-の市場は競争が激化ししたため、オリエンタルは新商品を考えていた。
カレ-は辛いのが当たり前とされ、大人の食べ物であった。そこに目を付けて子供にも食べられるようにしたのである。どうしたかと言うと、チャツネ(天然調味料)で辛さを調整することにより、辛味を抑えてまろやかな口当たりに出来るようにした。それが昭和37年に発売された「オリエンタルマ-ス・カレ-」である。
なつかし~い なつかし~い あの–リズ-ム
エキゾチックな あの調べ- オリエンタルの 謎を秘め
香るカレ-よ 夢の味 あゝ 夢のひと時 即席カレ-
君知るや~ 君知るや~ オリエンタルカレ-
この歌は、米軍基地で歌っていた名古屋市出身のカントリ-・ウェスタン歌手「山路智子」で、後に日本人女性として初めてアメリカ・テネシ-州の本場で「テネシ-・ワルツ」を歌った人である。米人にはトモコと発音出来なかったので「トミ-」の名で親しまわれた。藤山は、日本コロンビの会長だった藤山愛一郎にあやかったとされている。
昭和25年にエスビ-食品が、辛さをお好みで調節できる赤缶カレ-粉を発売し、日本のカレ-文化を大きく変えていた。
この当時、カレ-はまだ粉末タイプであったが、粉末タイプは、保存中に香りが飛ぶ上に湿気ってしまう。そこで考え出されたのが、昭和29年にエスビ-食品が発売した固形ル-である。更に昭和35年に江崎グリコが板チョコと同じブロックにした固形ル-「グリコ・ワンタッチカレ-」を発売してから、どこの家庭でも普通に食べられる家庭料理として定着した。
ハウス食品も同じ年に「ハウス印度カレ-」を出したことにより、これ以降のカレ-・ル-は固形タイプとなった。
固形カレ-は辛く、子供には不向きであった。昭和38年にハウス食品は、家族が一つの鍋で食べられるよう、リンゴとハチミツ入りの甘いカレ-「ハウス・バ-モントカレ-」を発売して人気商品となったのである。
昭和39年には、芦谷雁之助がインド人に扮して、インド人もびっくりで有名な「特製SB・カレ-」が発売された。この年は東京オリンピックが開催された年で、その1・2年前からカラ-テレビが普及し始め、昭和45年の「大阪万博」や「よど号ハイジャック事件」は、全国の家庭でカラ-テレビが一般化していた。
昭和22年、アメリカの援助によって給食が再開され、翌年、敗戦による食糧事情が乏しかったため、子供達にとインドから70トンの香辛料を提供された。このお陰で、学校給食にカレ-が初めて取り入れられた。但し、カレ-ライスではなくカレ-シチュ-で、パンやソフト麺の組み合わせで提供された。
何故カレ-ライスではないのか。それは、GHQが占領下の日本人の精神構造に手を焼いていたからである。欧米流の文化を日本人に植え付けるために「米の飯は体に悪いといってパン食にした」からだという精神文化説や、「余剰穀物である品質の劣る小麦を使いたかった」という経済的利益説、更に「米飯は手間がかかり、取り扱いが容易で衛生的・コストも安い」というコスパ説があるが本当のところは良くわからない。いずれにしてもパンは、サンドイッチ用のパサパサのコッペパンだった。
パンは水気がなくてはのどに詰まる。そこでアメリカは、当時、家畜(豚)の餌の脱脂粉乳が過剰だったので、ユニセフを通して日本に食糧援助した。
当時のアメリカやイギリスの野菜料理は、食材の原形を留めないぐらいまで煮込む。だから野菜の歯ごたえもないし本来の風味もない。ポパイの漫画は、ホウレンソウの缶詰が過剰在庫になっていたのをアニメにして売り出した。煮崩れするまで煮込んだホウレンソウにクリ-ムを入れたらものすごくまずくなる。だから過剰在庫になって当たり前だが、ポパイのようにホウレンソウを食べた瞬間、とてつもない力が湧いてくれば話は別である。だから、ものすごくまずくても何とか食べられ売れた。ところが、そんなアメリカ人でも「絶対に飲みたくない」と恐れおののいたのがこの脱脂粉乳だ。
現在、日本は同盟国として重要な国として位置づけられているが、当時のアメリカは、敵国日本に対し反日感情どころか、この世から日本を抹殺したいとすら考えていた。日本に援助物資を送る気持ちはさらさらなかった。ところが、米国にも知日派のキリスト教徒が声を上げて、ララ(日本難民救済協会)物資を送る協力をしたから、ユニセフを通して給食制度が復活出来たのである。
敗戦で極端に食糧不足に陥っていた我が国にとって、この制度が復活したお陰で子供の栄養失調を防いだことは確かである。
豚が食べるのなら、日本人も食べるだろう位の気持ちだったのだろう。実際、占領下の沖縄では、豚の餌と人間の食事内容はほとんど変わらなかったという。団塊の世代前後の人はこの脱脂粉乳の味は決して忘れられないだろう。
この脱脂粉乳は現在市場に出されているスキム・ミルクと全く味は異なる。
原料が粗悪だったことに加え、現在とは製法も異なる。一番の問題は、輸送の際に傷んでしまっていたのである。だから臭かった。担任の教師から「一滴も残すな!」と言われて鼻をつまんで飲んだ。これを「フ-ド・サディズム」と言う。
あの嫌な思い出である脱脂粉乳が牛乳に変更されたのが、昭和51年(1960~1970年)、お米の消費量が減ったために米飯給食となったことが切っ掛けである。カレ-ライスが学校給食となったのは、翌年の昭和52年である。
昭和57年、文部省は学校給食創立35周年を記念して、全国の小中学校で給食にカレ-ライスを出すよう指示した。それに従った学校では子供たちの評判がすこぶるよかった。食べた児童は全国で800万人。ところが、食事の内容まで国家が統制することに反対する一部の父兄の反対があった。(「カレ-ライスの誕生」小菅桂子著 講談社)
これが、カレ-ライスではなく、チキンライスか豚汁だったら反対はなかったかもしれない。カレ-は、発祥が海軍の軍洋食だったのが問題だったかもしれない。
「軍国主義の遺産であるカレ-ライス反対!」
この年は、第1回歴史教科書問題で揺れた年である。日本軍が中国に「侵略」したと記述していたのを「進出」へと改めたこと、「自衛隊合憲」の記述が明記されたことが反政府派にとって神経質になっていたからである。
ところがこの年には、家庭で多くの人々がカレ-ライスを食べ、カレ-ライスは国民食として定着していたのである。現在、カレ-ライスが軍国主義を想起させるものだとして食べない人はいないだろう。
カレ-ライスが定着したとはいえ、作るにはちょっとしたコツが必要である。
カレ-・ル-は、火を止めてから入れる。・・・・その理由は煮汁の温度を下げることによってル-を溶けやすくするためである。ル-の中の小麦粉に含まれるデンプンは、加熱するととろみが出るが、加熱しすぎると中が溶けにくくなって「ダマ」が出来てしまうからである。カレ-の煮込み過ぎや、翌日食べようとしたら水分が蒸発してしまって「コテ・コテ」になることがある。その時よくやるのが水を足して温めなおす。これは絶対やってはいけない。水を足すと煮汁の温度が一気に下がるため、うま味が飛んでしまう。その場合は、水ではなく固形のス-プを別の鍋で溶かしておいてカレ-に入れればよい。
隠し味としてコクを出したいのであれば、赤ワイン、インスタント・コ-ヒ-、チョコレ-ト(無糖のブラックチョコ)、バタ-である。我が家では中濃ソ-スを使っていた。
甘くしたいのなら、ハチミツ・リンゴジュ-ス、マイルドにしたいならプレ-ン・ヨ-グルトや牛乳、辛くしたい場合はトウガラシ、黒コショウ、ハバネロ、酸味が好きな人はトマトがお薦めである。
玉葱は繊維に沿って「縦」に切ると熱を加えても歯ごたえのあるシャキシャキ感になり、「横」に切ると熱がよく通って滑らかになり、タマネギの辛み成分が抜けて甘みが出る。
又、折角カレ-が美味しくできてもご飯がまずいと台無しになってしまう。カレ-に合うコメは粘り気のないものを使うこと。コシヒカリはカレ-に向かない。あきたこまち、はえぬき、つや姫等がより相性が良いが、脚気予防のために海軍が苦労して作ったカレ-なので、コメはビタミンB1がたっぷり入った麦飯か玄米或いは雑穀米がお薦め。糠臭さは、カレ-の香りでほとんど感じない。
子供の頃は、カレ-にウスタ-ソ-スをかけて食べていたが、大学に入り生協の食堂で出されたカレ-にはびっくりした。カレ-の上に生卵が乗っている。カレ-の卵かけご飯だ。後で知ったことだが、ソ-スも生卵も関西では昔から普通に食べられていたそうだ。
ついでに、カレ-の付け合わせの「らっきょう」は、イギリス海軍には当然ない。ピクルスを付け合わせにしていたものを、日本式に「らっきょう」に変えたらすごく相性が良かったようだ。
福神漬けを最初にカレ-に添えたのは、大正時代に日本郵船の欧州航路の一等席だけだったらしい。当時カレ-に添えていたのは「チャツネ」だったが、あいにく切らしてしまっていたので、代わりにコック用に積んでいた福神漬けを出したところ、とても好評だったことから一般化したらしい。但しこの時のカレ-は、ドライカレ-だった。二・三等席は沢庵だったようだ。
福神漬けは、日清・日露戦争で従軍兵士が食べていたとする記録があるが、我が家ではカレ-の付け合わせ以外食べることはない。カレ-にはとても良く合うと思うのだが、若者には人気がないようである。
七福神の弁天様が祀られている上野の「不忍池」の辺りにある漬物屋「山田屋(現在の酒悦)」さんが7種(ダイコン、ナス、ナタマメ、レンコン、キュウリ、シソの実、シイタケ)の材料を使って開発して命名したことから、この名がついたそうだ。「福神漬け」と「らっきょう」は、カレ-のお陰で「酒悦」の主力商品となった。
ハウス食品の「ハウス・バ-モントカレ-」が発売されてから5年後の、昭和43年という年はカレ-業界に革命的な動きがあった。
世界初のレトルトカレ-が登場したのである。
レトルトカレ-の製造技術は医薬品の技術から出発している。点滴液を高温処理で殺菌する技術(袋に入れた食品を専用の窯に入れて、袋が膨張して破裂しないよう圧力を掛けながら加熱する技術)を応用したもので、「お湯で温めるだけで食べられるカレ-、誰でも失敗しないカレ-」として売り出した。それが大塚食品のボン(良い、おいしい)カレ-である。(大塚食品のHPより)
松山洋子をパッケ-ジに起用し、笑福亭仁鶴がCMで「3分間待つのだぞ」或いは「じっと我慢の子であった」と言ってこの商品を大ブレイクさせた。大塚食品がすごいのは、この技術に対し特許を申請せずオ-プンにしたことである。何と懐の広い会社ではないか。
昭和43年に発売した翌年に、オリエンタル食品は「スナック・カレ-」という名のレトルトカレ-を発売している。
オリエンタル食品は、本社が名古屋市中村区にあり、我が家の実家から徒歩5分に本社工場がある。だから、子供の頃からオリエンタルカレ-はよく食卓に上がった。この地は、今でも名古屋弁を話す人が多い。だからこの会社のCMを聞けば会社の出身地がわかる。
横須賀出身の名古育ち、南利明の名古屋弁は地元の人より上手い。
めっちゃ、めっちゃ、うみゃ-でいかんわ
オリエンタルのスナック・カレ-
たった3分、ぬくとめる(温とめる)だけ
肉や、やさゃ-(野菜)がいっぴゃ-はいとるでよ
みんな、ウハウハ ウハウハ喜ぶよ
オリエンタルスナック・カレ-
ハヤシもあるでよ-!
「スナック・カレ-」が発売された3年後の昭和46年には、ハウス食品のレトルトカレ-、「ハウス・ククレカレ-」が発売され、レトルトカレ-はこれ以降、競争が激化し数えきれない程の商品が市場に出てきた。
レトルトカレ-ではなくレトロなカレ-を食べてみたい人は、カレ-の考案者が作った麦ごはんのカレ-がお薦めである。慈恵オリジナル・カレ-のレシピが東京慈恵医科大学のホ-ムペ-ジに掲載されている。
現在家庭で最も多く食べられているカレ-は、湯煎するか電子レンジで簡単に作ることができるレトルトカレ-である。
昔に比べると主婦の仕事は楽になった。掃除・洗濯・三度の食事は戦前とは比較にならない。食生活は豊かになっただけでなく、簡単・便利になった。
しかし、料理を簡単に作ることが出来るようにしたのは、主婦のためではない。
科学技術を結集してまで、食材の調理を簡単においしくする必要があったのである。必要は発明の母と言われる。誰が必要としたのか。
続く
中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。