【イギリス編②】
2.スペインとバチカンに喧嘩を売った男 ヘンリー8世
貴族の力がこの戦争で弱くなり、そこにヘンリー7世が即位しました。
彼はウエールズ系でしたので、彼の長男は「アーサー王物語」の伝説的な英雄の再来を願って、「アーサー」と名づけました。
ヘンリー7世の代は、フランスとは「百年戦争」のしこりがあり、当時新興の大国だったスペインと友好を図らざるを得ない状況でした。
イングランドとスコットランドは、仇敵の関係でしたから、スコットランドがフランスと連合することを防止するため、ヘンリー7世は、長女のマーガレットをスコットランド王「ジェームズ4世」に嫁がせました。
この二人の孫がメアリ・スチュワートで、エリザベス一世の悩みの種と云うより目の上のタンコブになった女性です。
彼女は、生後6日目で父が急死したため、スコットランド女王になり、5歳でフランス王と婚約し、17歳のときにその夫が急死してしまいます。そこで、彼女は実家のスコットランドに戻り王となりますが、愛欲に溺れ、放蕩三昧な女王に貴族は愛想をつかし、王の位を放棄させました。命の危険があると察知して、イングランドに逃げましたが、エリザベス一世にとって彼女は厄介ものでした。
カトリック教徒であることから、ロ-マ教皇からイングランドの王として即位するよう促されていたことと、メアリ・スチュワートは正当なイングランド王の継承権を持つ(エリザベス一世自身が妾の子と噂されていた)ことが、エリザベス一世にとっては目の上のタンコブ的存在だったのです。
1587年、イングランドに戻ったメアリ・スチュワートは、ロンドン搭に幽閉され、最後には処刑されてしまいます。44歳の生涯でした。
ヘンリー7世の長男である「アーサー」は、スペインとの関係を強化するために、スペイン王女「キャサリン・オブ・アラゴン」と政略結婚させられました。
ところが、キャサリンが16歳のときにアーサーは若くして亡くなってしまいます。
こういう場合、未亡人は本来、持参金を持って本国スペインに戻るのが慣例でしたが、財政難のイングランドはその金を国外に持ち出すことを渋りました。そこで「アーサー」の弟のヘンリーは、自分より6歳年上の兄嫁と結婚させられます。
ヘンリー18歳、キャサリン24歳でした。
ところがこの兄嫁との子は、女の子(メアリー一世)だけで、男の子は出来ませんでした。
これを理由にヘンリーは離婚を申し出ますが、カトリックは本来離婚を認めないのです。結婚は、人間同士の約束ごとではなく、神との契約行為だからです。当然、ローマ教会は彼の離婚を認めるはずがありません。
男子が生まれなかったことが理由なのか、それともキャサリンの侍女が美しくてそちらに目が行ったのか分かりませんが、離婚を強行したことで、彼はローマ教皇から破門されてしまいます。
そこでキャサリンの侍女、アンブーリンと結婚しましたが、この侍女も女の子(エリザベス一世)だけで、男の子は出来ませんでした。
またしてもヘンリーは、離婚を強要しますが、離婚に応じない彼女(アンブーリン)に姦通の罪をでっちあげて処刑してしまったのです。
エリザベスが2歳の時でした。
アンブーリンが亡くなると、彼は、ジェ-ン・シーモア(アンブーリンの侍女)と結婚し、やっと男の子が生まれたのですが、彼女は出産直後に死亡してしまいます。その子は、9歳で「エドワ-ド6世」として即位しますが、15歳で死んでしまいます。
ヘンリー8世は、その後も結婚・離婚を繰り返していきます。
実は、キャサリンとの離婚は仕組まれたものだろうという説があります。
その理由は、
- ヘンリー8世は、ローマ教皇が離婚を認めるはずがないと解っていた。
- キャサリンと離婚すれば、ローマ教皇から破門されることも予想していた。
それだけでなく、財政難に苦しんでいたイギリスは、ローマ教会との縁を切ることで、教会に収める十分の一税の支払いがなくなり、更に修道院を解散し、ローマ教会の財産を没収して軍備の補強に使用出来たことで、財政危機を救っているのです。
彼は、破門されたことで英国国教会を設立し、ローマ教会とたもとを分かち自ら英国国教会のトップ(最高の首長)となったのです。
イングランド国教会を設立し、ウェ-ルズを併合し、教皇が持っていたアイルランドの宗主権をヘンリー8世が奪い、アイルランドの有力諸侯が認めないにもかかわらず、自らアイルランド王を称したのです。
但し、アイルランドは植民地としてではなく,同君連合としての扱いでした。問題は、アイルランドは元々強固なカトリック信者が多く、英国国教会は広まりませんでした。
ヘンリー8世の離婚を契機にスペインとは犬猿の仲になっていきます。カトリック教国であるスペインにとって、英国国教会の設立は我慢の限界を超えていました。
ヘンリー8世以降の王、イングランドの行方はどうなったのでしょう。
ヘンリー8世以降の王は、必ずしも英国国教会を受け継いだのではありません。王が変わるたびにカトリック、プロテスタントとコロコロ変わり、そのために王と信仰が異なる国民が弾圧されますので、国民にとってはたまったものではありません。死にたくなければ、王が変わるたびに信仰を変えなくてはならないのです。日本人には出来ても、当時のヨ-ロッパ系の人には強固な信仰心を持っていますので、簡単には出来ません。
ヘンリー8世の死後、英国の王を順にみていきましょう。
①エドワード6世(プロテスタント)
ヘンリー8世の長男、三番目の妻、ジェ-ン・シーモアとの子
9歳で即位し、15歳で死亡
ヘンリー8世の遺言は、エドワードの次はキャサリンとの娘のメアリーを王とし、その次はエリザベスでありました。ところがエドワードは、跡継ぎにジェ-ン・グレイを指名したのです。この指名は、後にエドワードの病床を利用した陰謀だったことが発覚します。
②ジェ-ン・グレイ(プロテスタント)
ヘンリー8世の妹クイ-ン・メアリ-(ルイ12世王妃)の孫
ヘンリー8世の遺言によれば、エドワードの次はメアリー一世でしたが、病床のエドワードにジェ-ン・グレイを指名するようそそのかしたタドリ-一族の陰謀が発覚したために、在位9日間で廃位され7ヶ月後に、メアリー一世によって反逆罪で処刑されてしまいます。無論、彼女に罪はありません。16歳の生涯でしたが、イングランド史上初の女王です。
ポール・ドラローシュが描いた「ジェ-ン・グレイの処刑」は、王位をめぐる争いに巻き込まれ、短い生涯となった彼女の処刑を描いたものとして有名です。
③メアリー一世(カトリック)
最初の妻、スペイン王女キャサリンとの子で、4度の懐妊に失敗し5度目の懐妊で出来た子です。メアリーと名付けられたのは叔母にあたるメアリ・スチュアートにちなんでつけられたようです。
少女時代のメアリーは大変美しく、他国で評判の少女だったようです。
11歳年下のカトリック教国のスペイン王「フェリペ2世」と結婚し、結婚期間中はフェリペ2世と共同統治をしていました。
彼女は、イングランドをカトリック世界に復帰させ、プロテスタントを弾圧・処刑します。
父ヘンリー8世とエドワード6世が、イングランドを英国国教会に改宗させた努力を無視し、カトリックに戻そうとしたのです。
メアリーは、母の影響を受けた強固なカトリック信者で、多くのプロテスタント信者を虐殺しています。プロテスタントを迫害し、女・子供3000人を処刑し、改宗しないものは火あぶりにしたことから、現在でも飲まれているカクテル、血まみれのメアリー「ブラッディ・メアリ」(ウォッカをトマトジュ-スで割ったカクテル)は、血塗られた虐殺のイメ-ジから作られたのです。
フェリペ2世はスペイン王として本国スペインに帰った後、メアリーと会うことはなかったため、夫婦の間には子供が出来ませんでした。もし男の子が生まれていたら、現在とは全く異なった歴史が展開されていたでしょう。
スペインの血を引くメアリーには反対者が多く、イングランドがスペインに吸収されるのを恐れ、国民及び議会はエリザベスに王位になって欲しかったのです。そのため、国民が反乱を起こし、メアリーはこの時の反乱でジェ-ン・グレイを処刑、廃位させて即位しています。
しかし1558年、僅か5年余りの在位の後、卵巣腫瘍で帰らぬ人となりました。
④エリザベス一世(英国国教徒)
メアリーの跡を継いだアン・ブ-リンの娘、エリザベスは25歳で即位します。
本来、宗教的に中立だった彼女は、強国スペインからの距離を保ち、国の安定を保つ必要があると考え、かなり強行にカトリックを弾圧していきます。
イギリスがアイルランドを支配下に置いたのは、エリザベス女王の時代に
イングランドにいるカトリック教徒を英国国教会に改宗させるためで、応じないものは処刑されました。このため、多くのカトリック教徒がアイルランドやスコットランドに逃げました。しかし、エリザベスは容赦なくこの両地域に遠征して支配(植民地化)したのです。
英国国教会の勢力拡大のため、ダブリンに大学(ダブリン大学)を創設しましたが、遊学が許されたのは国教徒のみです。
ローマ教皇は、怒り心頭でカトリック信徒に「女王暗殺命令」を出しました。
ところが、逆にエリザベス女王は、カトリックの首謀者であるスコットランド女王「メアリ・スチュアート」(スコットランド王とヘンリー8世の姉マ-ガレットの孫)をロンドン搭に幽閉し、最終的に処刑してしまったのです。
カトリックの守護国であるスペインのフェリペ2世は、カトリック弾圧とスペインに対する反抗的態度に激怒し、スコットランドでカトリック再興の希望を託していたメアリーが処刑されたことを契機に、イギリスに向けて「アルマダ(無敵艦隊)」を派遣します。
世界を制覇したスペインが、小さな島国である弱小国のイギリスに宣戦布告したのです。イギリスは、最大の危機を迎えました。
ところが、スペインの無敵艦隊は、機動力に勝るイングランド艦隊にまさかの敗退を期し、制海権を奪われてしまいます。
スペインが怒った理由は宗教以外にも理由があります。
一つには、スペインの支配下にあったオランダに独立運動が起き、それを阻止するスペインに対し独立支持に回ったことです。
オランダの独立を支持した理由としては、
- スペイン王と結婚した姉のメアリーから,妾の子として思われていたエリザベスは、姉を快く思っていなかったこと。
- メアリーがフェリペ2世と結婚したことにより、イギリスの国民及び議会は、スペインの支配下に置かれるのではないかと思い、英国民はイギリス王にはメアリーでなくエリザベスに支持になっていたこと。
- エリザベスは、スペインのデカイ態度が気に入らない。オランダはプロテスタント(ゴイセン・・・・カルバン派)の国で、エリザベスは、プロテスタント同士が組んでカトリックのスペインに反抗する大義名分として、宗教を利用したのです。スペインの経済力を削ぐための絶好のチャンスと捉えたのでしょう。その証拠に、イギリスがスペインに勝利した後、オランダ領を奪っているからです。
スペイン経済力を削げば怖いものなしと考えたエリザベスは、男王でさえ躊躇するような行動を決死の覚悟で行ったことです。
国の存亡に拘わるこの賭けに勝利したことによりイギリスは覇権国となったのです。
イギリスにしてみれば、エリザベスの功績は歴代の王の中でも突出していました。正攻法ではスペインに勝つことは不可能ですが、国際的には褒められたやり方ではありません。どうも、エリザベスは父親に似て、サイコパスだったかもしれません。
中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。