【イギリス編①】
1.災いの震源地イギリス
イギリスはアングロ人とサクソン人と言うゲルマン民族と、北方のノルマン人、それにロ-マ帝国が侵略する以前から住んでいたケルト系のガリア人からなる民族で構成され、人種の違いだけでなく、宗教の違いから国家としての一体感がずれているようです。
①民族
日本人は、イギリスの小さな島にイギリス人がいて、イギリスと言う国家があると思っている人が多いのではないかと思います。実はイギリスと言う国名はありません。
イギリスの正式国名は、「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」と言う長たらしい国名が正式で、イギリスと言う国名ではありません。
このコラムでは便宜上、イギリスと呼称します。
イギリスは、イングランド、スコットランド、ウェ-ルズ、北アイルランドという国家の連合国で、南アイルランドだけはイギリスから独立して、「アイルランド共和国」という独立国家です。
ローマのカエサルの時代に、ヨ-ロッパに住んでいたケルト系の一民族であるガリア人征伐を行ったことによって、ガリア人は現在のイギリスに逃げ込みました。
それから100年後のAD43年に、ガリア人が逃げ込んだ島(ブリテン島)の大半をローマが支配しました。
ところがガリア人の一部のピクト人(ケルト系の民族)が北方に移動したため、ローマの五賢帝の一人であるハドリアヌステ帝は、イングランドとスコットランドの境界線上に「ハドリアヌスの城壁」を築いたのです。これが後のイングランド、スコットランドの境界になったのです。
ビクト人が逃げ込んだ島がブリテンだったため、彼らを「ブリトン人」と呼びました。これが、ブリテンと言う国名の由来です。
395年、ローマ帝国が東西に分裂すると、ブリトン人は帝国から自由になり、ハドリアヌスの境界を壊し、島全体に散って住むようになりました。
その後、このブリテン島にゲルマン人が侵攻してきます。このゲルマン人がアングロ人とサクソン人であります。よく、「アングロ・サクソン人」と言っていますが、ゲルマンの2部族のことです。
ブリトン人は、ゲルマンと勇敢に戦います。
この時のブリトン人の王が「アーサー王」で、王と円卓の騎士たちの物語は日本で「アーサー王伝説」として知られています。
残念なことに、ブリトン人は劣勢になって西方(アイルランド)と北方(スコットランド)に逃げますが、一部の者はドーバー海峡を渡って、現在のフランスのブルターニュ地方に移動します。
ゲルマン民族以外の先住民の多くは、このブリトン人たちの末裔なのです。
こうしてイギリス本島を「グレートブリテン」と言い、フランスのブルターニュ地方を「小ブリテン」と呼ぶようになったのです。
「グレートブリテン」を支配した「アングロ・サクソン人」は20の小さな部族国家で、互いに乱立していました。
9世紀には7王国に統合されましたが、最終的には「アングリア」と言う統一国家ができたのです。これが「イングランド」と言う名の始まりだと云われています。
但しこの「アングリア」(イングランド)は、アイルランド、スコットランド、ウェ-ルズはまだ入っていません。
アイルランド島には、大小様々な王国がありました。その中のレンスターと言う地域の王が、上級連合軍(王より高い地域にある皇帝軍)によって追放された時、レンスター地域の王はノルマン人の協力を求めたのです。
ノルマン人の助けで、レンスター王国は復興しました。
王は、見返りにノルマン貴族のリチャードを養子にして後継者としました。
ところが、ヘンリー2世(イングランド王でノルマンディー公)は大反対でした。
そこで、1171年にレンスターに侵攻して、自分の息子にアイルランドの支配権を与えたのです。
1536年、イングランド支配に対するアイルランド人の反乱がありましたが、ヘンリー8世はこれを鎮圧し、イングランドの統治下に組み込みました。
ヘンリー8世は、アイルランド貴族の了解を得ることなく、勝手にアイルランド王を称したので国民は反発しますが、強い者には勝てません。
それから100年かけてイングランドは、アイルランド支配を強めていったのです。イングランドとアイルランドは、20世紀末まで仲が悪かったのです。
②宗教
ケルト系民族は、ドルイド教(多神教)だったのですが、後にノルマン人、ゲルマン人が侵入して、キリスト教を持ち込み民を改宗させました。
中世になると、ルター派やカルバン派によるカトリック批判から、宗教改革が起こり、ここイギリス全土もカトリックとプロテスタントに分裂するようになりました。
ところが、イギリスでは、他の国に見られない宗教改革が起きたのです。
それはルタ-のように、教義の理不尽さに抵抗して起こったのではなく、国王が自分の離婚を認めないカトリックに抵抗し、カトリックから離脱して宗教教団を立ち上げたのです。これが英国国教会です。
問題なのは、国王の王妃がカトリック守護国で、しかも当時、世界の覇権を握っているスペイン出身者でしたので、話し合いで和解出来るような簡単なものではありません。
話し合いが出来ない場合は、結局、戦争による解決しか手がありません。
更に問題なのは、この戦争は小国だったイギリスが、大国のスペインに勝利したことで世界が大きく変わってしまったのです。
ここで、経緯をもう少し詳しく見てみましょう。
カトリックとプロテスタントの存在は誰でも知っていますが、日本ではこの中間というより、ややカトリックに近い聖公会(アングリカン・チャ-チ)が知られています。
私は、聖公会の教会で結婚式をあげましたので多少関心がありますが、一般的に日本では信者が少なく、英国国教会はあまり馴染みがありません。
イギリスで特に有名な建物は、
- カンタベリー大聖堂→英国国教会の総本山
- ウエスト・ミンスター大聖堂→英国カトリック教会の総本山
- セントポール大聖堂→チャールズ王太子とダイアナ妃の結婚式が行われた教会
- ウエスト・ミンスター寺院→英国国協会で、エリザベス2世女王の国葬が行われた教会です
もうお気づきのように、イギリスにもカトリック教会の総本山が堂々と建っています。
国教会とは教会を国家の下に置くことから、教会のトップは教皇(法王)ではなく、国王なのです。
聖公会は、聖なる公同の教会で、ホリイ・カソリック・チャ-チ(Holy・catholic・church)です。基本的に、聖書主義(聖書は信仰の基礎である)で、修行・善行より信仰が大事とされています。
そのため洗礼と聖餐会は、正式なサクラメントですが、結婚式は正式でないとされていますから、離婚は許されることになります。(創立過程から当然です)
又、キリスト教徒は全て平等で、聖職者と信者は共に平等とされますから、万人が祭司であると云う考え方です。
この国教会を設立したのはヘンリー8世(エリザベス一世の父)で、カトリックから分かれたのは、男子の跡継ぎが生まれなかった(生まれても、若くして死んでしまった)ことが原因なのです。
この頃の時代はイギリス史のクライマックスとも云える時代で、弱小国のイギリスが世界の覇者であるスペインに反抗し、カトリックに喧嘩を売った時代なのです。
その人物こそ、ヘンリー8世(豊臣時代の人)で、17歳で即位してから歴史は大きく動きます。
彼は、知性に秀でていただけでなく、語学にも堪能で熱心なカトリック信者でした。
ヘンリー8世の宮廷画家、「ハンス・ホルバイン」が描いた王の肖像画からは、身長が高く精悍な容貌であり、妻を6人も変えた精力的な男性だったことが伺えます。
女好きなのか直系男子の世継ぎが出来ないからなのか、男子が生まれないと王妃を処刑してしまう残忍な面(サイコパス?)を持っていたようです。
私は、女好きと云うより、直系男子の王朝を絶やさない強い決意が彼を冷酷にしたのだと思います。一方、娘のエリザベスは、血統より国家の存続・安泰、それに強いイギリスを目指し、「国家と結婚した」と彼女は言っていますが、一生独身を貫いたのです。
ヘンリー8世、エリザベス一世の代は、イギリス史のクライマックスだと思いますので、その当時のイギリス史を簡単に見てみましょう。
③イギリス史
ブリテン島はアングロ・サクソンに支配されていましたが、1066年にバイキングに攻められ、ノルマン人(北方の人の意)に征服されてしまいます。
これを「ノルマン・コンクエスト」といいます。ノルマン人はフランスをも侵略し、イギリスの対岸を奪います。これ以降、この地を第二世界大戦で有名な「ノルマンディー」と呼ばれるようになりました。
征服者であるバイキングの王は、ギョウム2世(ウィルアム一世・・・ギョウムはフランス語、英語はウィリアム)で、彼はフランス王の臣下でもあります。
やがてゲルマン貴族はバイキングに権力を奪われ、この影響で現在でもイギリス貴族にはフランス系の家系が多いのです。
13世紀後半にエドワード一世という王がいました。彼はウエールズとスコットランドを配下に収めていて、出産間近の王妃をウエールズの宮廷に招いて出産させました。
乳母はウエールズ人から選び、ウエールズ生まれのウエールズ育ちのエドワード2世(皇太子)が誕生したのです。
これ以降、イングランドの皇太子は、代々「プリンス・オブ・ウエールズ」と呼ばれるようになりました。(現在でも継承されています)
しかしこのエドワード2世は、名君だった父とは対照的で、イギリス史上最悪の王と言われ、同性愛者でもありました。
同性の愛人を摂政に重用し、軟弱になったイングランドに対しスコットランドが反乱を起こしますが、スコットランドに敗退するだけでなく、貴族・議会からも反発を買ってしまいます。
更に、フランス出身の妻からは王の廃絶を議会にかけられ、息子のエドワード3世が即位すると、彼は、バークレー城で拷問を受け無残な死を迎えたのです。初代の「プリンス・オブ・ウエールズ」としては、情けない王でした。
イングランド王は、フランスのアキテ-ヌ(ワインで有名なボルドーのある地域)を領有していましたが、フランスの一地方を領有する、単なる諸侯の1人に過ぎなかったのです。息子のエドワード3世は、それが気に食わなかったようです。
一方、フランスは、自国内にイングランド領があること自体気に入らないと考えていました。
両者の対決は、決定的なものでした。
フランスは、アキテ-ヌを摂取すると云い、イングランド王は、フランス王を主張したのです。(エドワード3世の母はフランス国王の娘だと言う理由です)
話し合いで解決できる問題ではなく、結局戦争になってしまうのです。
これが「百年戦争」です。
兵力はフランスが圧倒的に多かったのがですが、長弓と云う最新兵器の前でフランスは結果的に大敗し、存亡の地に立たされました。
ここに「ジャンヌダルク」が現れます。
彼女は13歳の頃からしばしば“フランスを救え”と言う神の声を聞いていたそうで、神懸りの少女でした。
フランスが苦境にあった「百年戦争」の後期に、男装して500Kmの道を徒歩でシャルル6世の王太子に直談判をしに行ったのです。
王太子はその熱意にほだされて彼女に数千の軍を与え、士気に勝る「ジャンヌダルク」軍が英軍に勝利しました。これ以降、彼女は「オルレアンの少女」と呼ばれるフランスの英雄になったのです。
その後、彼女は反国王派軍の捕虜となってしまいます。反国王派軍は、国王に身代金を要求しますが、王は支払いを拒否したので、代わりに英軍が身代金を支払い彼女の身柄を確保したのです。
英・仏共にル-アンで行われた宗教裁判で、「異端の魔女」との有罪判決を受け、ル-アン市広場で火あぶりの刑を受けて亡くなりました。
1431年、19歳の若き乙女に対し、フランスはこの救国の恩人を助けようとせず見殺しにしたのです。彼女の出自が一農民の娘だったからでしょう。
「百年戦争」で、イングランドはフランス領を失ってしまいます。
その後、イングランド内で貴族間の紛争があり、ランカスタ-家とヨーク家の対立が起こり、これを「バラ戦争」と呼び、30年も続いたのです。
フランス領を失ない、貴族の力がこの戦争で弱くなると、イングランドは歴史を大きく転換させ、イギリス史上最大のクライマックスを迎えたのです。
現在のイギリスの基礎を築いたといっても過言ではありません。
どんなことが起きたのでしょうか。
中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。