1.プロイセン(ドイツ)が普及させた方法
プロイセンは、日本人にとって馴染みのない国ですが、明治時代、日本が法律・医学を学んだ国はドイツでなく、ドイツの母体となったプロイセンです。
このプロイセンは、第二世界大戦で連合国に大敗しましたので、連合国によって地図上から抹殺されてしまいました。それで馴染みが薄くなったと思います。
ドイツ北東部の王国、現在のポ-ランドを含むブランデンブルク地方にあった国です。
ジャガイモを最初に食用としたのはこのプロイセンで、この国の大王「フリードリヒ2世」の貢献が大きかったのです。
ジャガイモは16世紀中頃に、スペインからオランダ経由でイタリアに紹介され、ドイツには16世紀末に入っています。
当初、ドイツでも観賞用として貴族の間だけ珍重されていました。
プロイセンは、平均気温が低く降水量が少ないうえ、氷河によって大地が削り取られたため土地はやせ細っていました。
その上に、
(ア)30年戦争(1618年~1648年)・・・・・プロテスタントとカトリックの宗教戦争で、国民の半分が死亡したほどの凄惨な戦争で、その後遺症があったこと。
(イ)その後に発生したペストが猛威を奮ったこと
(ウ)天候不良による凶作に度々見舞われたこと
によって、大王「フリードリヒ2世」は、何をおいても国力を増強するためには、国民の腹を満たす必要があると考えたのです。そこで目をつけたのがジャガイモでした。
しかし国民の偏見は根強く、「悪魔の植物」と言う迷信があり、犬も食わないとされたジャガイモを民衆が食べるはずがありません。
7年戦争に備えて、その偏見を解くために、彼は、1756年に「ジャガイモ令」を出し、強制的に自国の農家にジャガイモを作らせました。拒否した者には耳と鼻を切り落とすと脅してまで栽培させたのです。自らも率先してジャガイモを食べました。
その後、オーストリアと戦った7年戦争(1756年~1763年、ポ-ランド南部の領有をめぐる戦争)では、両軍共飢えとの戦いに苦しみましたが、ジャガイモが勝敗の鍵を握る兵士の重要な食料となったので、別名「ジャガイモ戦争」とも称されています。
7年後の終結時には、ジャガイモ栽培は全土に拡大されました。ジャガイモ栽培の前と後とでは、人口は224万人から543万人に急増し、軍も兵糧確保できたおかげで、プロイセンは屈強の軍隊となったのです。
プロイセン時代の気風は現代にも継承されています。
ドイツ人は質実剛健で合理的精神に富み、ドイツ料理は、土地が痩せているため食材に恵まれていません。ですから、日本料理のような四季・季節感を楽しむほどの食材に恵まれていませんから、料理のバリエーションも殆どありません。
ドイツ人は質実剛健と言うより、質素倹約が美徳とされるため、国が豊かになっても食事にお金をかけない気風があります。
ジャガイモ、ソーセージ、ハム、ザワークラフト等の保存食文化だから塩気が強く、バリエーションが少ない分、ソーセージは1500種以上あるようです。
とにかく、ドイツ人は、ジャガイモと豚肉をよく食べます。
ドイツは、土地が痩せているため家畜を飼い、家畜の糞尿を肥料として土壌を豊かにして畜産・農業を発展させました。このため、ジャガイモの皮や人間の残り物や余ったジャガイモを餌として豚が飼われました。厳しい冬を乗り越えるため、豚肉を加工して保存食としたため、ソ-セ-ジの種類は多く、ジャガイモとソ-セ-ジはドイツ料理には欠かせない食材となったのです。
当時、豚の餌は大麦とライ麦でした。食料不足になる冬には、餌が人間とバッティングしますから、冬になる前に親豚を殺していました。ところが、ジャガイモを餌にしたことで、冬を越す豚が増えて子豚が増産できたのです。豚は生育が早いから、庶民でも豚肉が食べられるようになりました。
豚以外の家畜は、食肉にするために育ててられているのではありませんので、殺すわけにはいきません。豚は肉にする以外の用途はありませんから、豚がジャガイモを食べることによって、ドイツを始めとする欧州は、肉食文化となったのです。
少し脱線しますが、
ドイツのパンと言えば、「ライ麦パン」のイメ-ジがあります。ライ麦は麦畑に生えていた雑草で劣悪な環境でも生き残った小麦の一種です。酸性土壌に強く、乾燥・寒冷な気候に耐えることが出来るので、ドイツの気候にはとても相性が良いのです。
酸味があり、茶色・黒色の硬いパンですが、ライ麦は膨らまないので小麦を混ぜて作ります。精製度が低いため、表皮・胚芽・胚乳が混ざっているので、栄養は豊富ですが、あまり美味しいものではありません。(好きな人がいたら、ごめんなさい)
中世でも、小麦で作られる白いパンは、主に王や貴族・領主の食べ物で、農民たちは黒いパンを食べていたのです。
ドイツ人は合理的な考えをする国民ですから、見た目の美しさに拘らないだけでなく、料理に手間をかけないようなのです。
野性的料理が多く、肉の塊にジャガイモ、ソーセージを一皿に盛れば立派な料理なのです。栄養中心の考え方から、イタリア人やフランス人のように食に対する執着心はあまりありません。
料理に季節感・四季・彩・盛り付け等、日本料理の繊細さはまるでないのです。食材が豊富でないから致し方がないのかも知れません。
又、合理性故に、一日の中で最も大切な食事は、夕食でなく昼食なのです。
これから活動する昼にしっかり食べると言う考え方なのです。
夜は、パンにハム・チーズを挟んだサンドウィッチのような、簡単な夕食なのです。
但し、ドイツ料理は600種以上のジャガイモを用いたレシピがあります。
かつて女性は「ジャガイモ料理を200種類知っていないと、嫁に行けない」と言われたのです。
ベルリンの中心部に「ティア・ガルデン」と言う名の公園があります。
ここは、東京ド-ムの45倍の面積があり、プロイセン王国の狩猟場だったところです。第二次世界大戦中から戦後にかけて公園を一部ジャガイモ畑にし、市民公園である「クライン・ガルデン」は、総てジャガイモ畑にしてドイツ人の飢えを救ったそうです。
脱線ついでにドイツと言えば、ビールは欠かせません。1845年、チェコの「ピルセン」でラガービールが作られました。バイエルンから栽培技術者を迎え、州都ミュンヘンで「ビール酵母」を分けてもらって作った味が、「ピルセン」のラガービールと大きく異なりました。
ミュンヘンは硬水でしたが、ピルセンは軟水だったからです。
軟水で作られたビールは、ピルスナーと呼ばれました。
冷蔵庫の発明により雑菌が抑えられたため、ビール製造は楽になりました。特にラガービールは低温で作られるため雑菌が繁殖しにくく、醸造中の失敗がほとんどありません。
イギリスもラガーを取り入れましたが、当時イギリスには「ガラス税」がかかりましたので、陶器のカップが使われました。
ラガービールの製造には冷蔵設備等の大規模な投資が必要で、そのため製造者は大資本家に限られていました。大量生産によるコストカットが出来たため、小規模資本家が入り込む余地はありません。
現在世界のシェアは70%がラガービールで、日本では小規模製造業者はエール(発酵期間が2週間と短く、15度~25℃の常温発酵。常温で飲むビール)を作っています。昔は瓶詰めした後に、殺菌のため60度で30分低温殺菌していました。
第一次世界大戦後、ドイツは「ビール純粋令」を全共和国で適用しました。
ビールの品質を保持するため、「ビール純粋令」が強要されたために、現在も高品質のラガービール生産地となっています。
17世紀は、30年戦争と地球の寒冷化によって、ドイツのぶどう園は壊滅してしまいましたので、ワインからビール作りに転換しました。このため、ドイツはビール王国になったのです。
ラガービールは、発酵温度が低いので、南ドイツが気候的に適しているのです。バイエルンのビールが高品質なのは、水と気候が影響しているようです。
2.フランスが普及させた方法
ジャガイモがスペインからフランスに伝わったのは、天下分け目の決戦「関ケ原」の戦いの頃の1600年頃です。
ジャガイモが観賞用植物だったものを食用にしたのは、プロイセンに限らずどこの国も事情は同じでした。
中世の人たちは、戦争と天候による飢饉の恐怖の中で暮らしていました。
雨が降らなかっただけで、人口の10%が飢饉で死んだのです。
現在のように、輸送手段が発達していなかったため、飢餓で苦しんでいる地域は放っておくしか手がなかった時代だったのです。
ルイ14世の時代(1660年~1662年)は、天候不順のため農作物の収穫が悪く、小麦の値段が高騰し、17世紀最大の飢饉になったのです。
この時、人口の15%、280万人が餓死したと記録されています。
猫は食べ尽くされ、木や草の根まで食べていた時代、ルイ14世は貴族を集めて毎晩パーティーを催していたのです。
日本でも、平安時代、羅生門の前に餓死者が捨てられ、飢えのために死体から衣服を盗み、髪の毛を剥いで売る者がいました。そんな時代、藤原道長の息子の頼道は宇治に「平等院鳳凰堂」を建てています。
“藤原氏にあらずんば、人にあらず”庶民は、人間ではなかったのです。
17世紀は戦争に明け暮れた100年で、フランスでは100年間で16回も天候による凶作がおきています。
1707年にも破滅的凶作がありました。
そこで、フランス・アカデミーは、飢饉の際に小麦に代わる食物を賞金付きで募集しました。
”飢饉の時に、小麦に代わる食料を発見した人に多額の賞金を与える”
と言う布告が1711年に出されています。
7人が応募しましたが、すべてジャガイモ栽培でした。その中の1人が薬剤師のアントワ-ヌ・オ-ギュスト・パルマンティエ男爵でした。
彼は7年戦争の時フランス軍に従軍し、プロイセン軍の捕虜となりました。
捕虜時代に、彼はジャガイモを毎日のように食べさせられ、捕虜の屈辱感を味わったのです。当時フランスでは、ジャガイモは家畜用の餌だったからです。
ところが食べてみたらまずいものではありませんでした。帰国後、彼はジャガイモを飢饉対策として栽培することを提案しました。
マリー・アントワネットが、パルマンティエ男爵からジャガイモの効用を聞いて、国王ルイ16世に伺いを立てると、彼は大いに賛同し普及させようとしました。
だが、当時、ジャガイモは悪魔的イメージがあり、普及させるためにルイ16世は、自ら上着のボタンにジャガイモの花をあしらい、マリー・アントワネットの帽子にジャガイモの花(紫)を飾ってパーティーに出るよう促しました。
マリー・アントワネットが愛した花は、「ベルサイユのバラ」ではなくジャガイモの花だったのです。
パルマンティエ男爵は、パリ郊外の「レ・サプロン」の原野に20ヘクタールの展示試作畑を設け、収穫期が近づくと、
”この畑はジャガイモ畑で、王侯・貴族が食すもの。盗んで食べたものは厳罰に処す ”
と看板を立て、兵隊を配備して警護に当たらせました。
昼は、厳重な監視下にありましたが、夜になると警備を緩めたのです。
庶民はそこを狙い夜に忍び込んでその作物を盗み、そして盗んだ芋を自分の畑で栽培した結果、悪魔的イメ-ジが払拭されて国民に普及した。という有名な話があります。
男爵は、ジャガイモが悪いのではなく、それを活用できない人間の方が悪いと考えたのです。彼は、薬剤師であり、ジャガイモの使い方を様々にアレンジして価値を高めました。特に小麦粉と混ぜてパンにすると美味しいことも発見しています。
更にこの男爵は、国民に普及した頃を見計らって、ジャガイモ料理のレシピ本を出版しました。このレシピの本に、ジャガイモのオムレツ、ジャガイモとひき肉のグラタンなど、今も残る料理が掲載されています。
現代でも、フランスのジャガイモ料理には「パルマンティエ」の名が付いています。
ルイ16世は、貧者のパンを発見したとして彼に賞金を与えました。
その後、ジャガイモは貧乏人の食べ物でなくなり、上流階級の人々も食べるようになったというのです。。
ですが、フランスのジャガイモの浸透は遅すぎました。1789年にフランス革命が勃発し、ルイ16世もマリー・アントワネットも断頭台で処刑されることになってしまいました。
フランス革命が起きた直接の切っ掛けは、絶え間ない飢饉を解決出来なかったからです。フランスでは、革命前の10年間に3度もの悪天候による飢饉がありました。当時、大衆にとってはパンがすべてだったのです。
マリー・アントワネットの”パンがなければ、お菓子を食べたら!”という逸話がありますが、この当時、ポテトチップス・フライドポテトはまだありません。
あれば「パンがなければ、ポテトチップスかフライドポテトを食べたら!」と言えば、そんなに国民に反感を買うことはなかったかも知れません。
プロイセン、フランスとは異なり、イギリスにジャガイモが普及したのは、ずいぶん後のことでした。次回は、その背景と理由を探ってみたいと思います。
中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。