世界の飢饉を救ったジャガイモは、神の贈り物ではなかった
ジャガイモの原産地は、チチカカ湖(現在のペルーとボリビアの国境付近)の湖畔で、富士山よりも若干高い標高3,800m、中央アンデス高地の限られた地域で栽培されていました。
近くのマチュピチュ遺跡(空中都市、標高2,400m)は、インカ帝国滅亡から400年後の1911年に発見され、この遺跡の段々畑でトウモロコシ・ジャガイモが栽培されていたようです。
現在、チチカカ湖畔には、山高帽をかぶる「アイマラ族」が住んでおり、彼等はインカ帝国に滅ぼされた人々の子孫です。
当時のジャガイモはゴツゴツしていて、皮を剝くのが大変でした。見た目が悪いので、現地の人は「豚の糞ころ」と呼んでいたそうです。
当初、チチカカ湖畔に自生するジャガイモは小さく、ソラニンを多く含む毒性の強いものでした。
現地の人は、このジャガイモを一昼夜外にさらしておき、寒さによって凍りつくと、昼には暖かくなり解凍します。
これを数度繰り返し、最終的に人が足で踏みつけると、ジャガイモの水分が放出され乾燥芋になります。こうすることによって毒性がなくなるので、その後水で戻して使ったようです。
高野豆腐でなく、高野ジャガイモと呼ぶと想像しやすいですね。
毒抜きの方法が解る以前には、多くの犠牲者が出たと思われます。
収穫したら日光に当てないことと、涼しいところに置き乾燥させておくこと。
こうすることで、発芽を抑えることが出来ます。
アンデスの人達は、ジャガイモを暗闇で、日の当たらない倉庫に保管していました。ジャガイモの毒性をよく知っていたのです。
ジャガイモはイモと名前がついていますが、イモではありません。芋は、雨期に葉を実らせながら、乾期に備えて栄養を地面の下に蓄える環境が必要ですから、雨期と乾期が明確な熱帯地方で多く見られるのです。
ジャガイモは、寒冷な気候を好み、熱帯性植物ではありません。
里芋、こんにゃく、キャッサバ、サツマイモ、すべて芋は熱帯性植物です。
ジャガイモは地下茎で増えるナス科の植物で、我々が食べているのは塊茎、つまり茎であり、サツマイモは塊根、つまり根を食べているのです。サツマイモは根で増えるヒルガオ科の植物なのです。
食用にされるようになった最初の頃、ヨ-ロッパ人はこのことを知らずにソラニン毒に当たってしまいましたので、ジャガイモを敬遠したようです。
栽培されていたジャガイモは野生種のため、現代の改良されたジャガイモとは見た目がかなり違います。大きさは小さめで、形はトリュフに似ており、色は白・赤・黒・土色と多様です。
ジャガイモの野生種は現在でもアンデス高原に存在します。
ジャガイモとトウモロコシは、インカ帝国の重要な穀物でした。
記録によると、現地人の主食はトウモロコシで、ケチュア語でジャガイモを「パパ」と呼んでいたようです。
ところが、ローマ法王も「パパ」と呼ばれていましたから、スペイン人は、このジャガイモを「パタータ」(現地人の言葉の意味はサツマイモを意味した)と呼ぶことにしました。
スペイン語、イタリア語は「パタータ」、英語は「ポテト」、ドイツ語は「カルトッフェル」で、「カルトッフェル」は、ジャガイモの形がトリュフに似ていますから、見た目で名付けたようです。
フランス語は「ホム・ド・テール」、オランダ語は「アールド・アッぺル」、この二ケ国は、赤いジャガイモがリンゴに似ていることから「大地のリンゴ」という意味で名付けたようです。
日本語では、ジャガイモがインドネシアのジャワ島(当時、ジャガタラと呼んでいた)からオランダ船で長崎へ伝えられました。このことから、ジャガタラの芋、即ちジャガイモと呼ばれました。戦国時代のことです。
現地語で「パパ」と呼ばれたジャガイモは、最初、1534年にスペインに持ち込まれ、アンダルシア地方やモロッコ西側のカナリア諸島で栽培されました。
そして、スペインから、オランダ、ベルギー、フランス北部、イングランド南部に入り、アイルランドにはイングランド南部のワイ島から伝わっています。
フランス・ドイツ・デンマ-ク・オランダ等の北部欧州の農村風景は、絵画の題材になるほどの美しさです。
これらの国は、氷河に削り取られた跡地であるため、地味が痩せていて、その上、表土が極めて浅く、農作物栽培にはあまり適していません。又、畑作は連作障害があるため、畑にした翌年は牧草地にして土地を休ませる必要があります。牧草地で家畜を飼って、家畜の糞で地味の回復を図ってきたのです。
酪農は痩せた土地には最適の土地利用なだけでなく、草食動物の餌が人間と競合しないばかりか、乳製品が得られる上に最後には食肉として利用でき、欧州人にとって生きていくため欠くことの出来ない産業なのです。
広大な牧草地に牛や羊が放し飼いにされた風景は、牧歌的で心が安らぎます。家畜にとっても、現在のような身動き出来ない家畜小屋で一生終えるより、はるかに幸せではないでしょうか。
オランダ・ベルギ-を訪れたとき、牧草地が広がり、所々に水車小屋と花畑が配置され、それは絵画の世界に入り込んだようでした。
日本は温暖な気候に恵まれ、山のふもとには平野が広がり、山からの水は幾重にも分岐する支流から豊富な栄養が運ばれ、土壌に恵まれた環境で農作物がつくられ、そこに集落が形成されています。
中北欧州とは違い、日本は豊かな自然環境に恵まれているのです。
現代人は、ビタミンが必須だと知っており、植物は品種改良されて美味しくなりましたので信じられないことですが、中世、ヨーロッパ人にとって野菜は好ましい食材ではなかったのです。貧者は、腹を満たすために仕方なく食べていたようなのです。
元々ヨーロッパ人は、東洋人ほど野菜を食べる習慣がありません。
肉・乳製品はカロリ-が高く、食材としての地位が高かつたのです。
日本人は米食が主食ですから、パンをご飯の代わりに食べて副食として肉を食べます。ヨーロッパ人にとっては、パンは前菜のようなものでありますから、料理の最初に出ます。メインディシュである肉料理は最後に出て、その時には目の前のパンは食べ終わっています。日本人が思う主食とは若干ニュアンスが異なっているのではないかと思います。
王侯・貴族が野菜の重要さに気づくのは16世紀以降であり、それ以前は貧者の食べ物でしたので、野菜栽培には税金が掛からなかったのす。そこで、農民は裏庭で野菜を栽培して食べていました。
ジャガイモが食用とされたのは、天候不順・植物の疫病等による農作物の凶作の年に、他に食物がなかったから腹を満たすために仕方なく食べるしかなかったのです。
「悪魔の植物」として嫌われていたジャガイモは、観賞用としては愛されていましたが、塊茎の部分は、家畜の餌か奴隷の食べ物で、一般の庶民は、飢饉にならなければ口に入れることはしなかったのです。
16世紀までジャガイモは、ヨーロッパでは国王・貴族の庭園や、薬草園で栽培されていました。但し、食用ではなく観賞用としての栽培でした。
その理由は、芋の部分は豚の糞のようで見た目が悪く、花は可憐な美しさがあるからです。
更に、当時の欧州には芋がありませんでしたので、土の中で育つ芋が食料だとは思わなかったのです。
神は、タネで増える植物をお造りになったと聖書に書いてありますが、芋は聖書に出てきません。
旧約聖書には芋どころか、アメリカや南米の存在すら出てきません。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神は、天地を創造しましたが、地球の裏側はあまりにも遠かったようです。
ヨーロッパでのジャガイモは、食用になった時代でさえ小麦の代用品でしかなく、凶作と言えるほどの飢饉がないと人々は口にしなかったのです。
ヨーロッパの歴史を見ると、戦争していない年はないほど、常に何処かで戦争が起きていました。好戦的な民族なのか、土地が痩せている上に領土が狭く寒冷なため、収奪しなければ生き残れなかったのか、理由はともかく厳しい環境がジャガイモを食用にしたのは確かです。
生産量の世界ランキング順は、人口の多い中国・インドが圧倒的に多く、その他、極寒のロシア・ウクライナが続いています。
中国は気候変動により、北部で水不足が深刻になっています。
そこで、寒冷でも育ち、水を必要としない作物であるジャガイモに目を付けたのです。
政府はジャガイモを主食化するため、作付面積を拡大化し、現在、世界一の生産量となっています。
しかし、ジャガイモは中華料理に合うのか不思議に思っていましたが、中国では家庭料理として食べられているようです。日本の中華料理店では見たことがありません。
ジャガイモの一人当たり年間消費量ランキング順は、
1位 ベラルーシ
2位 ウクライナ
3位 ポーランド
4位 カザフスタン
5位 ロシア
6位 アイルランド
で、総て北海道より緯度が高く、荒廃した土壌でも育ち、生産性が高く保存食であることから国を挙げて生産していることが共通点です。
ベラルーシの一人当たり年間消費量は、180キログラムで2位以下を大きく引き離し、断トツの世界一です。
1991年、ソ連の崩壊により「ベラルーシ共和国」として正式に独立しましたが、エネルギー自給率は10%しかありません。そこで、ロシアから輸入した原油を加工してEUに輸出しています。
人口は1千万人で、1994年からルカシェンコが大統領になっています。
プーチンは2006年、天然ガスの価格引き上げを行ったため、ベラルーシと激しい対立を生み、ルカシェンコは欧米に近づく動きを見せました。
このことから、ロシアは譲歩したため、ルカシェンコは欧米とロシアを天秤にかけてバランスをとっており、ロシアの脅威を感じながら現実路線を歩むしか方法がないのでしょう。
ベラルーシは、ソ連の計画経済に組み込まれていたことと、ソ連崩壊後もロシア経済に依存していて、経済的自立はその途上にあるとはいえ、貧困からなかなか脱し切れていないのでしょう。
ベラルーシのジャガイモ料理は、ジャガイモをすりおろし、パンケーキのように薄く焼いた「ドラニキ」は、今でもよく食べられているようです。
肉を挟むか、サワークリームをかけて食べると美味しいらしいのですが、毎日の食卓にジャガイモが出てくると、さすがに飽きてこないでしょうか。日本人のコメと同じ感覚なのでしょうか。
1位から5位までがロシア周辺国ですが、小麦で作るパンは高価なため、歴史的に貧しい国に消費量が多いと考えられます。
ヨーロッパは宗教の名を借りた領土侵略戦争の歴史でもありました。
飢饉は、天候だけでなく戦争も大きな原因です。農地の破壊と荒廃、それに不衛生な軍隊が疫病をまき散らし、そこに栄養失調のため、抗体を持たない農民が感染し、空腹のため危険なものまで口にする者がいたこと。このことが飢饉を招いた原因であります。
戦争に強く、耕作不適地でも育ち、生育が早いジャガイモは、カロリ-だけでなく、ビタミンも豊富で、かつ熱に強く壊れにくいという、人類を飢饉から救った有り難い食料なのです。
「神からの贈り物」と言いたかったのですが、残念ながら神はご存じなかったようです。
2005年11月25日、「国際連合」は発展途上国における食糧としてのジャガイモの重要性について認識を高めることを目的として、2008年を「国際ポテト年」と宣言しました。
ジャガイモの原産国であり、「国際ポテトセンター」の所在地でもあるペルー政府が発案したもので、貧困と飢餓の根絶と妊婦・幼児の健康改善を目指して決められました。
次回は、ジャガイモの特性と、日本で食用になった経緯について見てみましょう。
中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。