母への詫び状(6)
日本に帰国した時、長兄正広が5歳、正彦2歳、咲子は1歳未満であった。
栄養失調で乳の出ない母に代わって、ヤギのミルクで育った咲子は、小学校3年生まで言語障害のため友達と話すことが出来ない。
小学校6年生の時に、母親の小説「流れる星は生きている」を読んでショックを受け、それ以降母親に反抗的になった。
小説の中で、「リュックを開けると咲子はまだ生きている」の箇所と、途中、正広と正彦を生かすために、咲子を犠牲にしなければならない理屈ははっきり分かっているが・・・・」の箇所である。
「てい」は、一瞬我が子の命の選別が頭によぎったのだろう。
鳥が雛を育てる時、親鳥はヒナに平等に餌を与えない。元気で大きなヒナに集中して与える。鳥に人間の倫理は通用しない。平等に餌を与えれば全ての雛が平等に死ぬからである。
咲子はこれが事実でないことを祈り、父親に何度も聞いている。父親の返答は決まって、「あれは小説だから」と言うばかりだから、真偽をどうしても確かめたかった。咲子は大人になってもリュックの中から見た母の背中に掛かる紐と、紐と肩の間から見える北極星がトラウマとなって、北極星を直視出来なくなっていた。そのため、星の見えない新宿がお気に入りで、ネオンの満ちた街が一番ほっとする場所だった。
「母にとって私は邪魔な存在だった」
こんな思いで母を見ていた。だから母が許せなかった。
一方、「てい」は、北朝鮮の山にどれほどの赤ん坊が捨てられ埋められたのか。その山を見て、どんな気持ちでお母さんが子供たちを生きて日本に連れ帰ってきたのか咲子は知らない。我慢してきた気持ちがついに爆発した。
反抗的な咲子に、
「誰のおかげで生かしてもらったと思っているの!」と怒鳴る。
こうした確執の中で咲子が五十歳になった時、母の初版本が、「咲子へ」と書かれた母の手紙とともに倉庫で見つかった。
咲子は、ずっと母からの愛情を独占したかったにも拘わらず、それが叶わなかった恨みを抱いていたことがこの手紙で全く見当違いのものであることが分かった。兄二人と奇跡の赤ん坊の咲子に対する温かい愛情をその手紙で知った時、涙が止まらなかった。
心に傷を持っている人ほど堅牢な鍵がかかっている。その鍵は本人だけでなく、プロの鍵師でも開けられない。
深い思いやりを持った特別な人しか開けられない。人の心は元々そういう仕組みを持っている。
満州からの引揚者の中で、当時、「子の親」だった人は大半亡くなっている。咲子は最も若い引揚者であるが、昨年、後期高齢者になった。
現在我々は、戦争の犠牲者のもとに平和を享受しているが、平和の礎を築いた人々のことを忘れてはならない。
「藤原てい」著「流れる星は生きている」偕成社文庫
「藤原咲子」著「母への詫び状」山と渓谷社
で、この本が語ったことは、心に深い傷を負った人達が、遠い昔のことではなく現在も生存しており、「生きる強い意志と愛があれば、どんな苦境も乗り越えられるのだよ」とささやいているような気がする。
中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。