虹の人(3)

投稿日:2021年6月21日

虹の人(3)

何の成果がなく、世間からも注目されずに晩年を迎えて焦りが出てきたのだろう。そこで彼はとんでもないことをしでかしてしまった
トリックを使ったのだ。
彼は自分宛に鉛筆で書いた葉書を毎月出して貯めて置き、地震があると翌日に文字を消しゴムで消し、地震の起きた場所・日時・規模を書き、宛先は友人や研究所等で、自らそこに赴いて投函した。こうすれば、消印の日付が証拠となって、100%地震が的中する。
このトリックはほどなくしてばれてしまい、世間から見向きもされなくなっていった。しかし、それでも「椋平虹」の観測は続けられた。
北伊豆地震の予知はハガキではなく電報だったことから、未だにこの予知は謎とされている。

椋平より28歳年下に、諏訪出身の青年がいた。
名前は「藤原寛人」、藤原咲平の甥にあたる。寛人は、諏訪中学校から現在の電気通信大学に入り、中央気象台に就職した。27歳で結婚し、31歳の時、満州【「新京」・・・・満州の首都、現在の長春】にある気象台に配属され、妻と共に満州に渡りそこで終戦を迎えている。
彼は、妻「てい」の引き上げ途中でソ連軍の捕虜となり、10月に吉林省{朝鮮族}にある「延吉捕虜収容所」に入れられ、翌年1月に釈放された。
僅か3ケ月弱であるが、ここでの収容所生活で彼は地獄を見ている。
「延吉捕虜収容所」は1948年6月迄に飢餓と伝染病で8,900名余りの日本人が死亡している。帰国後は気象台に復職し、妻と子供3人の五人で官舎に移り住んだ
52歳の時、1959年の「伊勢湾台風」の教訓から、「富士山気象レーダー建設」の責任者としてテレビ出演している。NHK「プロジェクトX~挑戦者たち~」第1回登場者である。
この富士山気象レーダーは、気象衛星の発達により現在、運用を終了している。薄い酸素のため、高山病にかかる作業員、栄養失調との闘いに苦しむ中で、国家的事業にプライドを持った職員の精神力が支えとなって完成したのである。
このプロジェクトの模様は、新田次郎著「富士山頂」で詳しく書かれており、更に新田はこのプロジェクトの必要性を感じ、私財を投じて富士山頂の気象観測所建設に奔走した「野中到(大日本気象学会会員)の快挙と命がけの冒険を「芙蓉の人」で著している。
ところが、レーダーが完成して2年後、定年前の54歳で気象台を退職する。
四十歳過ぎてから刺激を受けて作家になっていた妻「てい」の刺激を受けて、本格的に小説を書き始め、後に、「直木賞」、「市川英治文学賞」を受章した。
ペンネ-ムは、実家の新田家の次男であることから「新田次郎」と名付けられた。
彼は小説「虹の人」で、椋平を主人公として取り上げている。

つづく

中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。

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