カレ-ライス(4)
~ミリ飯~
陸軍は基地・駐屯地でもない限り、野戦ではコックが料理を作るわけにはいかない。兵士にとって、最大の楽しみは食べることである。海軍にはその楽しみがあるが、陸軍には食材の調達は現地調達しかなく、とにかく不味い。現地調達は、いわばサバイバルである。
古代では、遠征の場合羊や牛を連れて行った。モンゴル兵は馬乳を飲み、非常事態になれば血液や馬肉を食べた。究極の食材は敵の身体だったこともあっただろう。戦地で遠征経験の長い国ほど食材の確保・加工に知恵が働く。
その点、日本では気候が温暖であり、国土も狭いし、それに米文化が幸いしたこともあって、食材加工の切実性は外国より希薄であった。
室町~戦国時代は、握り飯や餅(ちまき、五平餅、ずんだ餅、黍団子、煎餅)を主食とし、更に日持ちする干し飯・炒り米が陣中食だった。副食として、味噌玉、梅干し、鰹節等の燻製、納豆、高野豆腐、切り干し大根等豊富な食材に恵まれていた。中でも優れものの極め付けは「芋茎縄」で、これはサトイモの茎を切って干し、縄に編んで味噌で煮てから又干す。これを腰に巻くか荷縄にして使う。戦地ではそのまま汁と実になる。コメは籾のまま俵に入れていたので、酸化せず数十年も保存可能だから兵糧としてはもってこいの食料である。
麦文化の欧米ではこうはいかない。古くはナポレオン・ボナパルトが「軍隊は胃袋で動く」とし、保存食の開発を民間に研究させた。そして、開発されたのが瓶詰である。ところが、瓶詰めは食品を入れてから蓋をし、真空状態してから加熱殺菌(沸騰消毒)するから非常に面倒で、大量生産が出来ないこととガラス瓶は輸送中に割れてしまう欠点があった。
そこでイギリスは瓶を缶(ブリキ缶)に変えた。食品を入れてから蓋をして、真空状態してから加熱殺菌(沸騰消毒)するのは瓶と全く同じ。ところが、殺菌が不十分だと腐敗して発生したガスで爆発することがある。
更に問題があった。
缶詰を作ったのは良いが「缶切り」まで頭が回らなかったのである。こういうのを「詰めが甘い」という。それでどうしたのかと言うと、ハンマ-とノミで叩くか、銃剣やナイフを使うか或いは銃で撃ち飛ばして開けるしかなかった。こういう開け方をしたので、ハンダの鉛が口に入り鉛中毒になる恐れがある。
「缶切り」の発明は、缶詰の発明後50年経った第二次世界大戦中の1942年にアメリカ人が開発したが、その頃は縦長の大きな「缶切り」で、現在のように缶の縁を切る小型方式が開発されたのはほんの最近のことである。
因みに、現在使われているプルトップ方式は、缶ジュ-スのように蓋の一部のみが開口するパ-シャルエンドと、テニスボ-ル缶のフルオ-プンエンドの2種類あるが、空中投下する軍事用では使えない。
第一次・第二次そしてベトナム戦争を経験したアメリかで軍隊食(ミリタリ-飯、縮めて「ミリ飯」という)が発達したのは、軍の必要があったからである。
ジャングルの奥深く入れば、人間の食事ではなく動物と同じ食事が強要される。
日本が降伏した昭和20年から29年経った昭和49年(1974年)に、フィリピンのルバング島から帰還した小野田實郎(陸軍中野学校出身の陸軍少尉)氏から聞いた話である。
彼が帰国して十余年経った頃、ある機会を得て名古屋市中区栄の料亭で一緒に食事をした。少しずつ料理が運ばれてきたが、日本酒を少し口に入れただけで箸さえ取ろうとしない。彼にとっては、自分の思いを私に訴える時間を選んだ。
「ジャングルで一番つらかったことは何ですか」という問いに、
「自決できなかったことです」と答えられた。
食べ物と『蚊』や『虫』、それに何時敵が襲ってくるかわからない恐怖と戦ったこと等の答えを想像していた私には意外な答えだった。
「情報を上官に伝えるのが私の任務なのです。その任務がなかったら、とうの昔に自害していましたよ」
そうか、彼はスパイだったのだ。
「最初のころは食べ物で苦労しました。野草や昆虫、動物、民家から盗んだコメや穀類、総て火を通すことが出来ず生で食べていました」
「何故?」と聞くと、
「煙が出て居場所が敵に解ってしまうからです。夜中は煙が見えないが火の明かりは厳禁なのです」
玉砕が禁止されていたため敗戦後もひたすら諜報活動を続け、こうして私と穏やかな口調で話している時、体こそ小さいが彼の背骨は鋼鉄で出来ているような妙な違和感があった。彼はこの世の人ではなく、上官・戦友たちの英霊と共に生きている亡霊のように感じた。
彼の話は衝撃的だった。日本兵の多くは敵と戦って死んだのではなく、栄養失調・感染症による病気、それに食べ物を奪い合った末の仲間内の死だった。話し終えると、そのやるせなさと軍人魂との葛藤が彼の目に映っていた。そして、小野田少尉は、彼らの死が敵と勇敢に戦った「戦死」として家族に報告されていたことをも知っていた。
「こんな世の中を作るために尊い命を捨てたのではない」と独り言を言って料亭を出た小野田少尉の後ろ姿は、日本中の寂しさを背負っているようだった。
過去の戦争は多くの兵士が敵との直接的な戦闘ではなく、感染症や栄養失調によって餓死して死んでいった。
こうした幾多の経験から、アメリカ軍は、ネイテックという研究所(陸軍省環境医学研究所)で、野戦でもおいしいご飯を作るよう研究していた。
1. 栄養価が高く美味しい
2. 腹持ちが良い
3. 携行が容易
4. 日持ちがする
5. どんな環境でもすぐに食べられる
6. 食べた後のごみの量が少ない
総てを満足する食品の開発がここで行われている。これをコンバット・レ-ションという。兵士に配給されるという意味で、最近はミリタリ-飯(通称、ミリ飯)ともいう。
例えば、缶詰、シリアルバ-、ビ-フジャ-キ-は我々にはお馴染みであるが、軍事技術から民生用に転用されたからである。驚くことに陸軍は、腐らず、高温になっても溶けない砂漠仕様のチョコバ-も作った。
1. 調理が楽で、輸送上の制約が少ない
2. 世界の気候条件に耐えられ、包装される必要がある
3. 重量・体積がコンパクト
等の条件を満足するために、フリ-ズド・ドライが考え出された。フリ-ズド・ドライは粉末なので、戦場でお湯をかければすぐに食べられる。
粉末ジュ-ス、脱脂粉乳、インスタントコ-ヒ-等ベトナム戦争で多くの食品が作られた。インスタントの味噌汁・乾燥フル-ツ、粉末野菜ジュ-スも軍事技術が作ったものである。
フリ-ズド・ドライは、水分を含んだ食品をマイナス30℃に急速冷凍し、更に減圧して真空状態にすると、水分が直接気体(水蒸気)に変化するため乾燥することが出来るという技術が生み出したものである。
日本にもフリ-ズド・ドライは昔から使われてきた。高野豆腐・寒天・凍コンニャク等が代表的なものである。
優れものは、レトルト食品(加圧加熱殺菌食品)である。
外地での戦争が多かったアメリカは、世界で最もレ-ション(配給品)が発達した。戦争では、食事をした痕跡で敵に見つかってしまう。缶詰はゴミが出やすい。そこで缶詰に替わる軍用携帯食として「陸軍補給部隊研究開発部」は、携帯性に優れ、ゴミが少なく調理が簡単なレトルト食品を開発したのである。
シチュ-、ス-プ、パスタソ-ス、ハンバ-グ、ミ-トボ-ル等かなりの種類のものが作られた。 このレトルト食品も後に民生用にスピン・オフされた。
但し、軍が開発したレトルト食品は、湯煎用のもので電子レンジには対応していない。野戦で電子レンジは使えない。
因みに、電子レンジもレ-ダ技術を応用して、ネイテックが考え出したものである。
大塚食品の「ボンカレ-」ができた背景には、米軍の軍用携帯食である「真空パックにしたソ-セ-ジ」からヒントを得ているのである。
電子レンジに対応するためには、包装材に金属類が使えない。又、袋内で発生した水蒸気を抜き取る「蒸気抜き機構」を作らなければならない。大塚食品は、研究を重ねてこの袋(レトルトパウチ)の開発に成功した。
脚気予防に端を発した日本海軍のカレ-ライスは、軍事技術の民生転用により世界初のレトルトカレ-を生み出した。そのレトルトカレ-は、多くの食品会社が参入し、現在一般家庭でだれでも気楽に食べられるようになった。
カレ-は既に洋食としての位置づけはない。和食でもない。
そんな位置づけはカレ-にとって無用なのかもしれない。
多神教の神道を中心に、天皇による中央集権国家の基礎を作り、そこに仏教を取り入れ神仏習合の国家が建設された。
徳川家康が天下を取ると、それまで一大勢力を持っていた神社・寺社の勢力争いを避けるために、神社には氏子、寺社には檀家制度、武家社会には儒教を取り入れて三者がうまく経済的な棲み分けをし、安定した平和な社会を築き上げた。
神道・仏教・儒教等は、それぞれが対立することなくうまく調和していった。明治に入ると、「和魂洋才」、「脱亜入欧」に舵を切るとキリスト教を中心とした西洋思想が入り、クリスマス・復活祭等の宗教行事も日本の文化として取り入れられた。
「和をもって貴し となす」の考え方から、日本人は、「神道・仏教・キリスト教」を『炊き込みご飯』のように調和させることによって日本の独自文化を形成した。
この文化は日本人の食生活にも取り入れられた。「和・洋・中」の食の融合である。食の融合は、既に江戸時代に見られる。
卓袱(しっぽく)料理である。
卓とはテ-ブル、袱はふろしきのことで、卓袱は大皿を意味する。だから、「しっぽくうどん」は本来大皿で出すうどんのことである。
長崎を旅行した時、料亭の女将さんに
「卓袱(しっぽく)料理はどんな料理ですか」
と尋ねたら、
「わからん料理です」
との返答だった。
「ご存じないのですか」
と不思議に思って問いただすと、
「和・華・蘭・・・・ワカランと言って和食、中華、南蛮の要素が互いに混じっている料理です」
と教えてくれた。
山形有朋、坂本龍馬等、幕末から明治にかけてこの部屋の円卓のテ-ブルで食べた有名な店であったが、現代人には人気がないらしく、日曜日なのに閑散としていた。
カレ-も洋食としてのカレ-ライスに留まらず、和食文化にも取り入れられた。
これは洋食なのか和食なのか判別がつかない。
シジミカレ-、大根のカレ-煮、鱈のカレ-揚げ、白菜のカレ-漬け、冬瓜のカレ-、カレ-ドレッシングのキュウリ、タケノコのカレ-煮、カレ-粉を使った汁物。
要は、これまで味噌・醤油で味をつけていた煮物を、カレ-と塩で味付けしただけなのだが、洋の文化を拒否するのではなく、和の文化に融合させて食習慣にしてしまう恐るべき日本人の知恵には感服するしかない。
神道は多神教であると同時に宗教性を持たない。有神論を土台にしているにも拘わらず、教義を持たないからである。
教義を持たないまま、宗教行事は受け継がれ、時代とともに信仰色が薄められて文化習俗的な、宗教と言えない宗教が定着した。
それでも、神と仏は心の拠り所としてしっかり日本人の心に宿っており、神と仏のプライオリティ-を気にすることなく信仰の寛容さを保ってきた。
この宗教性こそが、人類の健全性の基盤ではないだろうか。
『ある高い水準に到達すると、
科学と芸術は美的にも形式的にも融合する傾向があります。
従って、超一流の科学者は常に芸術家でもあります』
このアルベルト・アインシュタインの言葉は、武士道の極致に通じるところがある。
わが国には、仏教・神道・キリスト教をはじめ多様な宗教が併存するが、他の宗教に対する寛容さが食文化の多様性を生んだ。
和食がユネスコ無形文化遺産として登録された理由は、
・素材の味わい
・調理技術
・栄養バランス
・季節感
・自然の恵み
等をうまく調和した結果で、それは日本古来の和食を対象としたものである。
しかし、日本には、和食としてのカテゴリ-に入りきれない日本独特の食文化がある。それは、カレ-やラ-メン、かつ丼、ナポリタン等数え上げればきりがない。日本人は、日本人の味覚に合わせて、外国の食文化をアレンジし、巧みに日本の食文化として定着させてしまうしたたかさがある。
それは、国家成立の過程で宗教に排他性をなくし、和を重んじる日本の精神構造が食文化を多様にしたのではないだろうか。明治時代まで、宗教の寛容さは殺生による肉食を禁止はしたが、食文化にタブ-を求めなかった。
和食がユネスコ無形文化遺産として登録された今こそ、日本の食文化の多様性を世界に広め、排他性に固辞する精神文化を見直すよう、食文化を通じて日本が中心となって世界に伝える好機だと思う。
カレ-が世界平和の礎となってくれれば、高木兼広はあの世で泣いて喜ぶことだろう。
おわり
中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。