【イギリス編③】
3.エリザベス一世とその後のイギリス文化
スペインが怒った理由は、前回説明した通り、当時スペインの支配下にあったオランダの独立運動を、エリザベスが支持したことが原因のようです。
その理由は、宗教上の理由もありますが、なによりスペインの経済力を削ぐためでした。
当時、スペインが南米のペル-でポトシ銀山を発見したことにより、豊富な銀の保有国だったドイツが衰退したため、織物をドイツに輸出していたイギリスは、そのあおりを受け、かなり痛手だったことで税収不足に陥っていました。
軍事力、経済力共にスペインよりはるかに劣っていたため、スペインの属国になれば平和は保証されたはずです。しかし、エリザベスのすごいところは、女性ながら弱小国のイギリスがスペインを制圧して、世界の覇者になる絶好の好機と捉えていたと思われる行動に出ます。
その理由は、当時、ドレイクの師匠のホーキング(海賊)達がポルトガル船を襲撃し、黒人奴隷をスペインに安く売っていました。その後、弟子の「フランシス・ドレイク」という海賊が活躍し、ポトシ銀山の銀を積んだスペイン船を襲い、強奪していました。
海賊行為は、収奪の利益が莫大ですが、船の建造費(初期投資)を始め、維持費・人件費・武器・食料等の運営費が大きく、収奪するには莫大な資本力が必要です。
エリザベスは、ここに目を付けたのです。彼女は、信長が海賊「久喜一族」を重用したように、海賊のスポンサーとなったのです。当然、略奪に成功すれば莫大な配当が得られます。
フェリペ2世は、ドレイクの背後にエリザベスがいることを知っていました。
無論、イギリス船団もスペインの海賊に襲われていますが、海賊行為を国家プロジェクトでやったのはイギリスだけです。
当時、イギリスの国家財政は200万ポンドでしたが、ドレイクがスペインのサン・フェリペ号を拿捕した時、600万ポンドを強奪し、エリザベスにその半分を献上したことから彼は海軍提督に任じられます。
当時無敵艦隊と言われたスペインに、アルマダの海戦で勝利出来たのは、海賊の親分を海軍提督としたことだけでなく、何より彼女がスペイン艦隊の前線に出かけ「神のために、わが王国のために皆さんと生死を共にする覚悟です!」と言った名演説が、兵士との団結心を強固にしたからだと思います。
この女性の名演説、実はその367年前に源頼朝の正妻、北条政子が御家人に檄を飛ばしていたのが思い出されます。そう、「承久の乱」です。
後鳥羽上皇が北条義時追討を命じたことにより、朝廷と鎌倉幕府とが争った際に幕府の御家人たちを前に大演説をしています。
「皆の心を一つにしてお聞きなさい。これが私の最後の言葉です。頼朝公の御恩は山より高く、海より深い。頼朝公を裏切る卑法物は、この坂東に一人もいない!」
彼女の迫真の言葉は武士の心を揺さぶり、朝廷の敗戦により後鳥羽上皇を流刑にしたことで、幕府の権威が一挙に高まった有名な事件でした。
国家財政を手っ取り早く豊かにするには、海賊行為と奴隷貿易です。イギリスはこれを国家事業としたのです。こんな国はイギリス以外にありません。
更に、スペイン・ポルトガル・オランダが苦労して植民地化したところをイギリスが力ずくで奪い、現地部族の不満がイギリス政府に向かわないよう、各部族間の対立を煽るといったやり方で統治したのです。
イギリスは、この頃から略奪と悪知恵の天才だったことが解ります。
エリザベスは、在位45年、生涯独身で69歳で亡くなっています。
すこし脱線しますが、日本の女性天皇は総て独身です。その中で最も大きく歴史を変えたのが孝謙天皇です。彼女は、聖武天皇と光明皇后(男子が生まれなかったので、「東大寺大仏殿」を造った)の子です。彼女は聖武天皇の子、安積親王(母は光明皇后でない)が幼くして亡くなったので、聖武の後を継いで孝謙天皇として即位しました。
ところが光明皇后が病気になり、母親を看護する理由で天皇位を淳仁(天武天皇の孫)に譲位し、孝謙自らは太上天皇になります。
光明皇后が亡くなると孝謙は病気になり、看病してくれた「道鏡」を寵愛するようになり、仲麻呂との不和もあって淳仁(仲麻呂のロボット的存在)を流刑にし、再度自分が天皇として政務を行うこととしたのです。名前を孝謙天皇から称徳天皇に変えましたが同一人物です。
男子が生まれるためのつなぎではありますが、彼女は独身のため跡継ぎはいません。問題なのは、天皇の血統だけでなく、藤原家にろくな人物がいないと思ったのでしょう。
彼女の考えは天皇家を血統ではなく、徳のある人がなるべきだと考えて、徳のある「道鏡」を念頭に置いたのですが、それが称徳と「道鏡」のセックススキャンダルとしてデッチあげられたのです。「道鏡」を天皇にすれば、「道鏡」には子がいないので、次が問題になります。禅譲されて困るのは藤原氏です。
藤原家は、植物の藤のように天皇に寄生し、天皇を後ろ盾に富と権力を独占しますが、決して天皇を目指さない「不文律」があります。持統天皇以降その子孫は藤原氏の女性と結婚して天皇になる慣習が出来、藤原氏以外の女性と出来た子供は抹殺される運命にあるのです。
天皇家にも不文律があります。女性天皇は全国の巫女のトップたる地位であります。巫女は神に仕えるため、当然処女でなければなりません。だから元正天皇(聖武天皇の父である文武天皇の妹)、それに孝謙=称徳天皇は処女を強いられたのです。
現在、女性天皇を認めようとする動きがありますが、天皇の娘「愛子様」が天皇になられると、この理屈から処女を強要すると問題になります。
又、形式上でも天皇はアマテラスの血を引き継いできました。日本史上一度たりとも儒教思想を取り入れ、徳を重視し血統を無視して即位した天皇はいません。徳のある人物を誰が決めるのか。天皇位は民主主義で決めるものではありません。
称徳天皇の後継者は、彼女にとっては不本意ながら天智系の光仁天皇となりました。男系男子の不文律から天武系には適当な人物がいなかったのでしょう。
光仁天皇の后は称徳天皇の妹(井上内親王)でしたが、この后は母子共々暗殺されてしまいます。後妻は、高野新笠(百済系の帰化人)で、平安遷都した桓武天皇の実母です。・・・・2001年、平成天皇(現在の明仁上皇)は、「続日本紀」に高野新笠が百済王族の遠縁に当たると記されていると述べておられます。
称徳天皇の儒教思想を取り入れる考えは、将来混乱を生む考えであったと思います。血統重視の考え方から、称徳天皇以降860年もの長い間女性天皇は誕生していません。
イギリスは男系男子の不文律がなく、王朝は交代しています。
女系男子にすれば王朝が替わるので、日本では反対論は多いのです。
話は戻りますが、1603年、エリザベスの死後彼女に子がいなかったため、スコットランドの王をイングランド王(ジェ-ムス一世)として迎えました。
彼は、イングランド、スコットランド、アイルランド王を兼任したことによりイギリスは連合王国となります。
ジェームズの業績は、カトリック、プロテスタントの宗教紛争を終結させたことと、王制と議会民主主義との共存を確立したことです。
ジェームズの次の王は、息子のチャールズ一世で、彼はフランス王アンリ四世の三女(ルイ13世の妹)と結婚します。この嫁はカトリック教徒なので議会の反感を買ってしまいます。
彼は、議会の承認なしに課税しただけでなく、ピューリタン(イギリスではピューリタン、スコットランドでは長老派と呼ばれています。)も弾圧の対象としたため、イングランド内部だけではなくスコットランド・アイルランドまでも国王に敵対することになりました。
これを「三王国(イングランド・スコットランド・アイルランド)戦争」と呼びます。日本では「ピューリタン革命」と呼ばれています。(徳川3代将軍家光の頃)
ピューリタン革命は、革命の結果チャールズ一世は殺され、息子のチャールズ二世が継いで「王政復古」しましたから、革命と呼ぶのは相応しくないという説があります。そこで、イギリスは「三王国戦争」と呼んで、ピューリタン革命とは言わないのです。
チャールズは一時フランスに亡命しました。
スコットランドのカトリック教徒は、母国にチャールズがいない寂しさへの思いを捨てきれません。スコットランド民謡「マイボニー」は、この寂しさとチャールズ・エドワード・スチュワートの思いを表現した詩なのです。
この戦争でオリバー・クロムウェルは国王軍に勝ち、1649年にイギリス史上始めて国王を公開処刑したのです。それだけでなくスコットランド・アイルランドの反乱軍も鎮圧しました。
この時カトリックのアイランド人は大虐殺されました。鎮圧されたアイルランドはイギリスの植民地になり、カトリック教徒は弾圧され、アイルランドの土地の三分の二がイギリスの地主に与えられました。
イギリスの地主は殆どが不在地主でした。このことは、後にアイルランド飢饉の大きな要因になります。
勝利したクロムウェルは独裁色を強めていきましたが、1658年、59歳の時にインフルエンザで亡くなり、「ウエスト・ミンスタ-寺院」に葬られました。
彼は、国王を殺した罪により死んだ後に墓を暴かれ、チャールズ二世の戴冠式の当日に遺体を絞首刑の後斬首され、24年ものあいだ首を寺院の屋根に晒されたのです。
日本人にはこういう感覚は理解できません。いくら極悪非道な人間であっても、墓から死体を掘り起こして首をはね、その首をさらすことはあり得ないでしょう。日本人の感覚は、極悪人でも死ねば「成仏する」と考えられていたからです。
話は又逸れますが、クロムウェルが王を処刑した1649年、王党派・反体制派の人たちは大挙して田舎に避難し、ユダヤ人達も難を恐れてロンドンを離れたのです。翌年、オックスフォードに「コーヒーハウス」がオープンしました。店のメニューは、東洋のお茶・西インド諸島の砂糖・アラビアのコーヒー・無国籍風エスニックと風変わりな店でした。
店のオーナーは、ユダヤ人の「ジェイコブ」で、イギリス初の喫茶店「ジェイコブの店」が開店したのです。おそらくこの店には、友達同士がたばこの煙をくゆらせながらコーヒーを飲み、おしゃべりして楽しむ気楽な店だったに違いありません。
それから10年後、チャールズ2世が誕生して王政復古します。
当時、チャールズ1世と2世は、洒落者として有名でした。禁欲的なピューリタン風の政治がよほど嫌いだったのでしょう。
現在の英国国王は、エリザベス2世女王が崩御され、チャールズ3世が継いでおられます。チャールズという王は、現国王の前にはこの時の1世と息子の2世のみです。
チャールズ2世の代は、避難していた人達がロンドンに戻ってきて、サ-ビス業は、人口密集を狙って集まります。コーヒーハウスも、彼らがロンドンに移動したのを契機に乱立することになります。
実はこの時代、イギリスだけでなくドイツ・フランスにも新聞が発行されていました。当初は「号外」程度の臨時のものでしたが、しばらくすると、週に1回程度発行されることになります。コーヒーハウスにも新聞が置かれたのですが、今と違って客が回し読みするのではなく、客の一人が朗読して店内の客に聞かせたのです。客層はエリートだけでなく、学生、商人、貴族等身分の差はなく、世の中に関心のある者達が集まり、朗読が終わるとそのニュースに喧々諤々(けんけんがくがく)の議論が巻き上がります。議論好きの人達は、毎日入り浸って議論を楽しんでいたに違いありません。
このコーヒーハウスは、この経緯からジャーナリズムの母体になりました。
中でも有名な
- ココア・ツリー・・・・・・保守党のト-リ-党(与党)が集まる店
- セント・ジェームズ・・・・ホイッグ党(野党)が集まる店
の2つの店がイギリスの世論形成に大きく貢献しました。
国会議員達は高額納税者から選ばれた有産者階級で、現在のような一般国民の代表ではありません。
多くのコーヒーハウスでは、無産者階級の人達も毎日集まって議論を交わしたと想像されます。ですから、議員達も政党政治とは云え、国民世論を無視した形で政策は決められないと感じていたはずです。この時代、コーヒーハウスは“影の国会”の役割を果たしていたのです。
但し、すべてのコーヒーハウスが政治の話で盛り上がっていたのではありません。客の中には、小説、哲学、音楽、芸術、株取引等趣味や興味がそれぞれ異なります。そこでコーヒーハウスは、趣味・興味を同じくする者だけを集めてクラブ化していったのです。今でも、英国はゴルフ以外に○○クラブがとても多いのです。
中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。