世界を大きく変えたジャガイモ 第3話

投稿日:2024年6月1日

ジャガイモの特性と日本で食用になった経緯

 

前回、記述しましたように、ヨ-ロッパ中部および北部の土地は、氷河に削り取られたため土地が痩せています。その上、表土が極めて浅く、寒冷なため農作物栽培にはあまり適していません。

その為、日射量が少なく、天候不順で幾度となく凶作に見舞われてきました。

特にヨ-ロッパ全土に飢饉をもたらしたのが、1815年4月、インドネシア「スンパワ島」(当時オランダ領)のタンポラ山(標高2851m)の大噴火です。人類史上「世界最大の火山噴火」で、規模だけなく犠牲者も世界噴火史上最大の火山爆発でした。

AD79年に古代都市「ポンペイ」の都市を瓦礫と灰にしてしまった「ベスビオス火山」噴火の20倍の規模だったのです。

1911年、フィリピンの「ピナツボ火山」噴火では、地球の気温が0.5℃低下しましたが、タンポラ山の噴火は1.7℃も低下したのです。

噴煙と火山灰が成層圏に達し、日射が遮られたため、地球全体の気温が低下し寒冷化したのです。翌年、「夏のない年」と呼ばれるほど低温になりました。

この火山爆発は、北ヨーロッパ、北アメリカ、中国大陸に飢饉をもたらしました。ヨーロッパ各地で不作による食料不足がおこり、20万人の餓死者を出したのです。

ヨーロッパでは、タンポラ山噴火以前にも天候不順だけでなく戦争による飢饉が何度もありました。その上、16世紀~18世紀は、気候的に小氷期であったのです。この時期には、既にジャガイモはヨーロッパ全土に広がっていましたが、各国で戦争が絶え間なく起こっている時代でもあったのです。

嫌われていたジャガイモが食用になったのは、戦争と寒冷化が穀物(特に小麦・大麦等)の凶作を招いたからなのです。

 

第二話で記述しましたように、ジャガイモはトリュフに似ているから、きのこの一種と考えられていました。

但し、当時のジャガイモはまだ野生種に近かったので、見た目がハンセン病患者の手に似ているために、食べるとハンセン病になると信じられていました。当時のジャガイモは芽の出る部分が深く、ゴツゴツしており、形はかなりいびつだったのです。

ジャガイモに対する偏見はそれだけではありません。

①聖書に記述がない植物の為、罪深い食べ物であること

地中に肥大し増殖すること。ニンジン・蕪(カブ)も地中ですが、この2つは種(タネ)から育ち、ジャガイモは芋自体が増殖する奇妙な植物で気味が悪かったのです。茎から細いストロン(ランナ-)が地中を這うように伸びてゆき、その先端が膨らんで芋になるからです。生物はオス・メスがあって子孫を増やしますが、ジャガイモは種芋を植えて増やしますから単体で増えます。ですから、性的に不純な植物と思われていたのです。

③ジャガイモは芽に毒があり、これを知らずに食べて中毒を起こす者がいたこと

このため嫌われもののジャガイモでしたが、一方で利点も多くあります。

ジャガイモは単位土地面積あたりの生産量が高く、収穫部分が地下にあるため冷害を受けにくく、鳥害に影響されません。又、3~4ケ月で生育し、年に複数回の栽培が可能で、凶作に強いことがわかってきました。

それだけではありません。

①畑が少々荒らされても収穫が可能(戦争に強い)なこと。

②畑を貯蔵庫代わりにして必要な時に収穫ができること。

③小麦よりはるかに収穫量が大きいこと。

です。

天候による農作物の不作と戦争による飢饉によって、小麦に代わるジャガイモを代用食として何とか食べられないかと各国は必死に考えました。

しかし、「悪魔の植物」という民衆の気持ちはそう簡単に変えられるものではありません。

ジャガイモはマンドレイクやイヌホオズキに似ており、悪魔の化身のようで、とても食べられるようなものとは見えなかったのです。

ジャガイモが食用にされたのは、ヨ-ロッパにもたらされた1570年から実に150年から200年もかかったのです。

第一話で述べましたが、中世、ヨーロッパ人にとって野菜は好ましい食材ではありませんでした。貧者は、腹を満たすために仕方なく食べたようです。

だから当時、野菜を食べない人が多く、ビタミン不足による壊血病が流行りました。

ジャガイモは、芋に含まれるビタミンCがデンプンで守られているため、加熱しても壊れにくく、また保存性も良いことから、壊血病を防ぐことができたのです。

ジャガイモがヨ-ロッパに持ち込まれ、食用になったことで、保存性も良いことから船に積み込まれ、多くの船員達の壊血病予防に役立ったのです。

 

ジャガイモをよく食べるオランダでは、スペインから伝わり、18世紀前半には栽培されていました。しかし、貧者の食べ物でしたので一般の人は食料と言う認識はありませんでした。

18世紀中頃になって厳しい冬が原因で、小麦等の穀物価格が値上がりしたのでジャガイモを食べざるをえなく、一時期、主食にまでなったのです。

オランダの飢饉は、ナチス占領下の1944年、ドイツがオランダへの物資の輸送を遮断したことから起こりました。

オランダの「レジスタンス運動」がナチスにとって気に触ったのでしょう。

この年、追い打ちをかけるような記録的寒さがオランダを襲い、アムステルダムを含む西部地域で食糧危機が起こっています。

オランダは国土が狭く、現在、穀物の自給率はわずか14%でかなり低いのですが、カロリーベースでは66%になっています。この理由は、ジャガイモによってカロリーを稼いでいるのです。

オランダ人は、ジャガイモが大好きな国民です。ス-パ-では、買い物かごに山ほどジャガイモを買って帰る人を多く見かけました。夕食には必ずジャガイモのポテトフライが出ます。ところが、肥満の人はほとんど見かけません。平均身長が世界一で、街中では自転車通勤が多く、きっと運動によってカロリ-を消費しているのかもしれません。

隣のベルギ-やルクセンブルグは美食の国で、オランダは食事が質素だという印象があります。

粗食の方が体にいいのかもしれません。

 

16世紀のイタリアは飢饉が何度も襲い、貧しかったが故にジャガイモだけでなく、トマト・ズッキーニ・唐辛子等、新大陸の怪しげな食材を拒否できる状態ではなかったのです。このお陰でイタリアは早くから食材が豊富になり、フランス料理の元となる料理が発達したようです。

スペインが覇権を握っていた頃、イタリアはスペインの支配下にありましたので、ローマ法王の使いからジャガイモとフルーツが送られた記録があります。

更に16世紀後半にオランダからも、チューリップとジャガイモが送られています。

 

日本にジャガイモが入ったのは、サツマイモよりも早く、低湿地帯の多いオランダに比較的早く定着してから、前回お話ししましたように、このオランダを通じてインドネシアのジャワ島(ジャカルタ)経由で伝わりました。

ジャカルタは、当時ジャガタラと呼ばれていましたので、ジャガイモはジャガタラ芋と呼ばれていたのです。

1598年(戦国時代)にオランダ船から長崎へ伝えられましたが、当初は欧州と同様「観賞用植物」としてで、食用ではなかったのです。

食用になったのは天保の飢饉で、餓死の危機を救ったことから、「御助芋」(ごじょいも)と呼ばれました。この頃はまだ救荒作物であり、飢えを満たすためだけに食べられていました。

ジャガイモは「馬鈴薯」とも呼ばれます。形が馬につける鈴に似ていることからこの名がついたようです。

明治時代に北海道で開拓が始まり、函館ドックの専務理事、川田隆吉(男爵)が英国から「アイリッシュコブラ」(靴直し職人の意)と言う品種を導入しました。後の「男爵芋」です。

川田男爵は、”少年よ、大志を抱け!”のアメリカ人「ウィリアム・スミス・クラーク」から学んで日本に普及させた功労者です。

わが国の代表品種は、この男爵芋のほかに「メイ・クイン」があります。

ジャガイモは冷涼な気候でも育ち、サツマイモが生育できない北海道や東北は逆に適地だったのです。

 

日本のジャガイモ人気ランキングは、

1位  男爵(アイリッシュコブラ)

煮崩れし易いので、コロッケ、マッシュポテトに適しています。

2位  インカのめざめ

高級で甘いため、製菓の材料として使われますが、栽培が難しいのが難点とされています。

3位  アンデスレッド

濃厚な甘味があります。

4位  男爵芋を母に持つキタアカリ

5位  メイ・クイン(May・Queen)

煮崩れしないので、カレ-、シチュ-によく使われます。

名の通り、春になると美味しくなります。

 

ジャガイモは、明治時代には栽培されていましたが、味が淡泊すぎて和食に合いません。

ヨーロッパで貴重なコショウとジャガイモは、和食には合いませんが、肉料理とは相性が良いのです。

サツマイモは、甘味があるから肉料理には合いません。

日本の食卓に取り入れられたのは、西洋の料理が上流階級に食される明治以降のことです。一般の人に食べられるようになったのは、昭和初期になってコメ不足、戦争による食料難になったからです。

 

繰り返しになりますが、ヨーロッパの高緯度地帯は、寒冷で土地は痩せていて、穀物生産には適していません。麦も収穫量は、西アジアに比べると数分の一しか得られないのです。

19世紀以前には、中北欧の人々は、限りある食材を大切に扱い、美味しさの追求よりも食糧不足の将来不安から、断食をすることが薦められたのだろうと思われます。

日本でも、食事は生命維持が基本ですが、家族と仲間、それに神と一緒に食事をする共食信仰があったのです。ハレの時に使われる箸の先が両方細くなっているのは、自分と神が使うためだと言われています。

更に、食材を与えてくれた神に感謝する気持ちで「頂きます」と手を合わせるのは、食事の前にお祈りするキリスト教徒と同じ発想だと思います。

ユダヤ教、イスラム教は、食物規定についてかなり厳格です。忌むべき食べ物はかなり多いのです。

仏教でも肉食は原則禁止です。

キリスト教は、ユダヤ教から派生しましたが、イエスが食物規定を取り払った理由は、ユダヤ教のル-ルがあまりにも厳格なので、それが人々を苦しませているのをたしなめたからです。

“口に入るものは人を汚すことはない。口から出るもの(言葉)が人を汚すのである”

と食物規定を否定したのです。

凶作で食べ物に困っている人々に、聖書に書いていない「悪魔の植物」と決めつけて禁ずるのは、イエスの教えではあり得ないことです。

ただ、農作物だけでは、大勢の人間を養うことは困難です。

ですから、農地は畑として利用するだけではなく、牧草地にして家畜を放し飼いにし、家畜の糞で土地を肥やし、ミルクと肉の高カロリ-食を取り入れたことで人口が増え、豊かになったのです。

 

ヨ-ロッパでジャガイモを普及させたのは、プロイセンとフランスですが、この二大大国の普及方法は、全く正反対の方法でした。

どのように普及させたのでしょうか。国柄の違いのような気がします。

次回は、ジャガイモの歴史で必ず語られる、有名な話を取り上げてみようと思います。

 

 

中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。

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