【イギリス編④】
4.紅茶
有名なクラブとしては、文学を愛好する「キット・カット Kit-Cat」で、現在、チョコレートの名前になっています。
その他、料理で有名な「ブードル」、女性だけのクラブ「アレクサンドリア」と様々なコーヒーハウスがクラブ化しました。無論、たわいもないおしゃべりを楽しむコーヒーハウスの方が多かったと思います。
コーヒーハウスは、情報が集まる中心地となりました。
港湾周辺のコーヒーハウスには、航海情報を聞くために船舶関係者が多く集まり、情報の発信・受信に欠くことのできない存在になりました。店の一つにこの情報を基に、海上保険を引き受ける会社が出来ました。
世界一の保険会社「ロイズ」は、ここで誕生したのです。「ロイズ」の元は、コーヒーハウスだったのです。
コーヒーハウスは日本では「純喫茶」(喫茶店)で、友達・恋人とお茶(コーヒー・紅茶)とタバコを楽しむ店として定着しました。私の若い頃は、「サテン」で「ダベリング」することが唯一の楽しみでした。
イギリスのコーヒーハウスも、コロンブス一行がサンサルバドル島で喫煙を楽しみ、その習慣がイギリスに持ち込まれ、アラビアコーヒーを飲みながらおしゃべりし、時々タバコを吸う姿がファッション化したのでしょう。
日本では、つい最近までコーヒーにタバコはつきものでした。
喫茶店の喫は喫煙という意味なのに、現在、喫煙できる店は殆どなくなりました。このため、喫茶店で相手をケム(煙)に巻くことは出来なくなりました。
チャールズ一世の子チャールズ2世は、即位後ポルトガル王家の「キャサリン・オブ・ブラガンザ」と結婚します。
彼は妾が14人もいて、14人の子供を産みますが、王妃との間に子が生まれなかったため、弟(ジェイムズ2世)に王位を譲りました。チャールズ2世はどうも政治に興味がなかったようです。
結婚して7年目に、フランスで「クロバット」というファションが流行していました。「クロバット」とは、「クロアチア軽騎兵」という意味で、クロアチア兵がフランスに入城してきた時に、今でいうネクタイを首に巻いていたことから「恰好いい!」と爆発的に流行したのです。
チャールズ2世は、これを宮廷でネクタイの着用を義務付けたのが切っ掛けで、あまり意味のない単なるファションとして世界中に広がり、我々日本人にまでノ-ネクタイで会社に来ることが憚られるようになってしまいました。
明治初期にチョンマゲ頭で、背広にネクタイが恰好よく映ったかどうかわかりませんが、“皆やっているから”という同調圧力の恐ろしさが現代まで続いているのが不思議でなりません。
チャールズ2世と妾との子(庶子)に王位継承権がなかったのに、弟王は兄の子供達に贅沢な暮らしを与えていました。
これに見かねた殿医の「ドクター・コンドーム」が、王のために牛の腸膜を使った避妊具を開発したと言う説があります。・・・・事実かどうかわかりません。
この14人の嫡子の子孫の一人が、スペンサー伯爵家の血を引く世界で最も愛された故「ダイアナ妃」です。
当時のポルトガルは、大航海時代の先駆けとなった先進国で、イギリスがかなう相手ではありません。その大国から嫁いだキャサリンは、持参金も桁違いで、金銭ではなく、インドのボンベイ(現在のムンバイ)をチャールズ2世に持参したのです。
ボンベイは、キャサリンが飲む紅茶の仕入れ拠点であり、これにより後の東インド会社の拠点が置かれ、大英帝国の原動力になったのですが、紅茶は王族・貴族以外は高価すぎて口に出来るものではありませんでした。だから、紅茶を飲むこと自体がステイタスだったのです。
東インド会社は、宮廷のために紅茶の輸入を拡大した結果、1720年頃には大幅に価格が下落し、庶民の口に届くよりになり、イギリスからコーヒーが一掃され紅茶帝国となったのです。
コーヒーは男性達の社交の場でしたが、男女の出会いを求めて男性が「ティガーデン」に行くようになったため、コーヒーハウスは廃れてしまったのです。味ではなく、女性を求めて紅茶が飲まれるようになったからコーヒーは淘汰されたのです。
ト-マス・トワイニングという人が、ロンドンにコーヒーハウス「トムの店」を開店しました。その10年後に、女性も利用できるお茶の専門店「ゴールデン・ライオン」を開店させたのが切っ掛けで、紅茶トワイニングは300年経った現在でも世界中に好まれています。
日本の茶道は禅宗と相性が良く、武士(男)のたしなみでしたが、「ティーパーティー」はご婦人たちの社交場であったのです。
欧州の国でお茶に初めて出会ったのはポルトガル人で、場所はマカオでした。ポルトガルは当時、東洋との貿易が盛んで、中国から紅茶を輸入し貴族の間でよく飲まれていました。
王妃(キャサリン)はポルトガル出身で、嫁入りする際に東洋のお茶と砂糖を船で運び、後にイギリスにティ-タイム(アーリーモーニングティ・アフタヌーンティ・ナイトティー)を始めたという文化をもたらした有名な女性です。
アフタヌーン・ティーが有名になったのは、当時イギリスは朝と夜の2食でしたので、その間にお腹が空くためにお茶にバター付きパンを食べたのです。その後客を招いて優雅な作法として定着しました。
ジェイムズ2世には、先妻との間に娘を2人(メアリーとアン)設けています。男の子がいなかったため、彼が40歳の時、15歳の「メアリー・オブ・モデナ」と再婚します。
キャサリンはポルトガル式の喫茶作法を採用したのに対し、「メアリー・オブ・モデナ」は、オランダ式作法を取り入れ、フランスで流行したミルクティも広めました。オランダ式とはお茶をティーボールからソーサー(紅茶茶碗)に移して飲む作法のことです。
貴婦人たちが集まり、おしゃべりしながら紅茶に高価な砂糖を入れて飲むのがステイタスで、贅沢な気分と何よりも甘くて美味しいということで、今でもイギリス人は紅茶に砂糖を入れる人が多いようです。
このおかげで中国や日本の磁器(ティーポット、カップ&ソーサー、ケーキプレート)等が王侯貴族の間で広がり、やがて欧州全土にこの文化が浸透しました。そのため、中国の景徳鎮、九州の有田焼から大量の茶碗や皿が輸入されたのです。
当時の磁器はとても高価でした。そこで各国は、中国や日本の磁器を研究し、ヨーロッパで独自の発展を遂げました。
イギリスの「ウェッジウッド」、「ロイヤルドルトン」を始め、ドイツの「マイセン」、デンマ-クの「ロイヤルコペンハーゲン」、ハンガリ-の「ヘレンド」等です。
発酵したお茶(紅茶)は苦かったようで、お茶に砂糖を入れて飲む習慣が定着しました。茶だけでなく砂糖はとても高価なものでしたから、紅茶を飲むと言うことはステイタスだったのです。逆に、ステイタスを求めて紅茶を飲んだとされています。
ところが、これが悲劇の始まりでした。貴婦人がスプーン一杯か二杯の砂糖を入れたことにより砂糖の需要が高まり、サトウキビを栽培するために、植民地で大規模なプランテ-ション経営に乗り出す者が現れ、多くの奴隷が必要になったのです。
ブラジルやカリブ海沿岸諸国で砂糖のプランテーションが作られ、アフリカで黒人奴隷売買が行われ、奴隷貿易・奴隷労働を生みだした結果、イギリスに莫大な利益をもたらしたのです。
貴婦人達は、紅茶を飲みながらおしゃべりを楽しんでいたようですが、まさか紅茶に砂糖をいれたことが悲劇の温床になったとは思いもしなかったでしょう。
茶は、中国語で「チャ-」、茶の生産地である福建省では「テ」です。この読み方が欧州で「ティ」となったのでしょう。
茶は椿科の植物であり、葉は少し厚めで椿の葉によく似ています。
紅茶と緑茶はご存知のように、茶葉を寝かせ酸化させ、赤黒く変色したのが紅茶で、酸化させないのが緑茶です。紅茶は緑茶と違い、酸化したことにより傷みにくいので長期間の長旅に向いています。
緑茶はアミノ酸の旨み、紅茶はカフェインの味で、カフェインの味を愉しむのなら中国産よりもアッサム種の方が向いています。
私は、イギリスを訪れたことはありませんが、カナダ、オ-ストラリア、ニュ-ジ-ランド等、イギリス系の国(コモンウェルズ)のカフェで紅茶を飲んだことがあります。どの店も総てティ-バックで出され、ミルクティ-はありましたがレモンティ-はありません。砂糖も入れない人が多かったような気がします。
一般の家庭では、マグカップで飲む人が大半で、庶民からエリザベス女王まで幅広く飲まれていますので、現在はステイタスではなくなっています。
イギリスは水道水が汚染されていたこともあって、産業革命以降、労働者は眠気覚ましと水分補給を紅茶で愉しみました。
イギリスで、紅茶といえば二つの大きな事件がありました。
一つは、ボストン茶会事件です。
イギリスはアメリカに紅茶を輸出しました。オランダからイギリスに植民地が引き継がれ、紅茶を飲む習慣も引き継がれたましたが、イギリスはアメリカに対し紅茶に重税をかけたので、アメリカはオランダから密輸したのです。当然、イギリスは密輸茶を厳しく取り締りました。
1773年12月、茶を積んでいたイギリスの船が襲われ、ボストン港に投棄されました。(ボストン茶会事件)
この事件が切っ掛けで、1775年、イギリスから独立しようとして戦争になりました。紅茶に責任はないはずなのに、アメリカ人は紅茶に対し反感を持つようになり、紅茶の味に似せて浅く焙煎したアメリカンコーヒーが登場したのです。アメリカは、スターバックスに代表されるコーヒーの消費量が世界一となりました。
二つ目は、アヘン戦争です。
茶は中国から輸入するしかありません。イギリスは中国に売るものがなく、輸入超過により貿易赤字に苦しみました。アメリカは独立するし、インドは伝統的綿織物業が産業革命によって壊滅寸前です。
そこでイギリスは、インドにケシを栽培させてアヘンを清国に売りました。
清国でアヘン中毒が蔓延し、清国政府は怒って船に積まれたアヘンを海に捨ててしまいます。イギリスは怒り狂い、1840年、アヘン戦争が勃発します。
インドは儲けた金で綿製品を買うことで、イギリスは豊かになりました。
アヘン戦争は、日本にも大きな影響をもたらします。
清が負けた知らせは幕府にとって重大でした。西洋諸国が中国に求めていたものは、絹製品と茶であったため、日本も生糸と茶の生産に力を入れました。
勝海舟は、駿河の名産であった茶を、明治維新によって失職した武士に栽培させ、静岡県島田市牧之原市菊川市にある牧之原台地(大井川下流と菊川に挟まれた洪積台地)に日本一の大茶園を作り、外貨獲得に大きく貢献したのです。
江戸から静岡に移封された徳川家達(いえさと・・・・15代将軍慶喜の後継者)に従った幕臣と、大井川渡船許可により失業した川越人足に土地が払い下げられ、この台地を茶園として開墾したことにより、静岡は茶の名産地として発展することになりました。
アヘン戦争後、イギリスは中国からインドに生産拠点を変え、茶の栽培を試みましたが、茶にとっては暑すぎるのでうまく育ちませんでした。
1823年、イギリスの探検家「ロバ-ト・ブルース」がインドのアッサム地方(インド北東部)で、自然に生育された茶木を発見しました。
茶木は大きく分けると2種類に分類されます。
- 日本、中国南部(福建省)の温帯地方
→茶木の特徴は、冬の寒さや乾燥に耐えるために葉が小さく厚い。
- 熱帯地方・・・インドアッサム種
→茶木の特徴は、熱帯地方は害虫が多いので、葉が食べられないよう葉に毒を持つ。茶木の葉には抗菌作用のあるカフェインの含有量が多い。少しぐらい食べられてもよいように葉が大きいのが特徴です。アッサム茶は、味も色も濃いためミルクティ-に向きます。
高価な磁器「ウェッジウッド」・「ロイヤルドルトン」に高価な紅茶・砂糖を入れて飲むのがステイタスだった時期を経験したイギリスは、当然料理も豪華で美食を愛したはずです。ところが、欧州先進国でイギリス料理の評判は最悪と言ってよいほどです。
イギリス料理がまずいのは、いろいろな理由があるようです。
次回は、その理由を探ってみたいと思います。
中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。